『ちゅーしちゃえば良いじゃん』
姉貴に言った言葉を思い出して、俺は小さなため息を吐きだした。
それはまるでメトロノーム
放課後、大河は教室から出ると部活に出るために階段を上っていた。屋上にある自分達専用のグラウンドに向かう途中に思い出されるのは、昼休みの姉、薫との電話の内容だ。本日、自分の先輩であり姉の想い人である本田吾朗が、アメリカから帰国した旨を姉にメールで報告したのだ。そうすれば、昼頃バイブレーターにし忘れた携帯がけたたましく鳴り響き、着信を確認すると薫からだった。用件はいたってシンプル。メールの内容の確認だ。いつ帰ってきただのなんだのとわざわざ大河に確認を取る薫に、大河は呆れたように(いや、ようにではなく実際呆れていた)「自分で連絡取れば良いじゃん」と返した。そこで出たのが「ちゅーしちゃえば良いじゃん」だ。その言葉に薫は慌てふためき大声で否定をすると乱暴に通話をシャットアウトした。そんな姉の態度に(全くどんだけ純情ぶってんだよ)と実姉ながら半ば呆れてその場をやり過ごした。
けれども、それは自分の事でなかったから言えたまでだ。思い返して大河は二度目のため息をこぼす。次第に足取りは重くなる。薫と吾朗の恋愛模様を見ているといじいじしてくるのは本音だ。呆れているのも本当だ。というかちゃっちゃとくっつけよと実際思ってはいる。大学生にもなって、中学生以下のことしか出来ないのかと心の中で薫を馬鹿にしているのも事実だ。けれども、結局そう思えるのはしょせん他人事だからだ。実際自分が好きな相手を目の前にしたらどうなのだろうか。考えて―――はあ。三度目のため息。
「こら、清水君!元気がないぞ!」
聴覚を刺激した高い声と同時に背中に伝わる痛み。ピリリと走るそれに「いいっ!」っと大河は小さな声を漏らして、睨みをきかせると、其処で姿を現したのは同じ野球部(けれどもマネージャーだ)のだった。にしし、と八重歯を覗かせながら微笑む様は、高校生と言うには幼い印象を受ける。大河はじとりとを睨みつけたが、そんな牽制、彼女には無効だ。大河の予想は的中した。変わらない笑顔に心の中でため息をつくと、また前を見て階段をちんたらと上り出す。ちらりと目の端に映ったの手。きっと、いや十中八九その右手で大河の背中をたたいたのであろう事は容易に想像できた。
「いてぇよ馬鹿力」
皮肉な言葉を吐き捨てたが、それでもは笑んだまま「野球部で日々鍛えられてますからー」と明るい口調で返して見せる。
それから、ぐいっと大河の腕を引っ張ると
「ほうら、早く早く!キャプテンが遅刻なんてかっこ悪いぞっ!」
大河の左腕を引っ張りながら、後ろ向きで歩きだす。器用に後ろ脚のまま階段を上り、大河の腕を引っ張るにはあ、と大河は大きくため息をついた(隠すつもりはなかったようだ)
「…お前、ほんと放課後なのに元気だよな」
「だってやあっと勉強から解放されたんだよ?好きな野球が出来るんだよ?清水君はもっと喜ぶべきなのだよっ、うん」
くいくいと大河の腕を引っ張り続けるにもう何度目かのため息をつこうとして――大河は息を呑み込んだ。それよりも、先ほど考えていた言葉を思い出したからだ。かあ、とほんのりと大河の頬が赤く染まり、自分でも異変に気付いたのか、顔を伏せる。その行動を不思議に思ったのは目の前のだ。どうしたの?と大河の名前を呼びながら心配そうに顔を覗きこもうとする。それに気付き大河はなんでもない。と早口で告げるとの顔がそれ以上近づかないように制止した。の眼前につきだされた、豆だらけの大河の手を視界にとらえ、それ以上何も言えなくなる。
「人がせっかく心配してるのに」
「大きなお世話」
ひねくれた事を言ってはいるが、大河はの気遣いをうれしく思っていた。ただ、素直になれないだけだ。つんけんした表情や態度・言葉を紡いでしまうのは、彼なりの照れ隠しだろう。昼休みにあれだけ調子の良い事を姉に告げていた少年とは、到底同一人物とは思えない。もしこの場を薫にでも知られでもしたら、弱みを握られたも同然だ。はあ、心の中で大河はため息を吐きだして、まだ火照る顔をあげることもないまま、階段を上っていく。なぜか今日は階段が長く感じると大河は思った。実際はなんら変わり等ないのだが。
掴まれた腕はいまだ離されることがない。不意に視線をやると、無駄に意識してしまい、さらに頬に熱が集まるのがわかった。(あーくそ!)ドキドキと動悸まで激しくなってくる。その意味を、大河は理解していた。きちんと自覚していた。あんな態度を取ってはいるが“彼は彼女を好いている”と言う事。
「ほら、あとちょっとだよー」
聞こえてくるソプラノの声がやけに頭に響く。決して不快なものではない。むしろずっと聞いていたい。そこまで考えて、こんなことばっかり考えているから顔の赤みが取れないのだと頭を振った。「ちょ、清水君?」突然の大河の行動にがほんの少し驚いた声を上げた。表情もそれに似合ったように、こげ茶に近い瞳を大きく開かせていた。大河はもう一度自分を掴む手を見やって、「あーもう、自分で歩けるっての!」半ば力を入れてふりほどいた。
「え、」
瞬間、唐突な振動には対処しきれず、バランスを崩した。そのあとはまるでスローモーション。ひゃ、あ。驚いた声が清水の耳の横をダイレクトに通り抜けた。同時に、鼻を掠める甘い香り。トン、との身体が傾き、そのまま重力の力で大河の横を通り過ぎようとして、大河は見事な反射神経でそれを左手で受け止めると自身の方に引き寄せた。とっさに階段の手すりを右手で掴む。
「…ぶねっ」
無意識に大河の声は、吐き出した安堵の息と一緒に零れ落ち、左腕でがっしりと掴んだの方に視線を向けた。は驚きのあまり声が出ないようで、ポカンとただ下を見ていた。「バカ」自分でその原因を作ったにも関わらず、大河は呆れたように言い放つ。そこでようやくははっと我に返ったようで、「ご、ごめん!」謝罪を述べたのち、すぐさま「ありがとう!」とお礼を叫んだ瞬間、バっとの顔が大河を向き、―――息を、のんだ。
ほんのかすかに触れた、の唇。時が止まったように、二人は動けなかった。大きく見開いたの双眼が大河を映す。あまりの至近距離に、眼がおかしくなったかのような違和感。
「っ、」
ごめん!再度、けれども先ほどの謝罪とは比べ物にならないくらいの音量(そして意味合いも)を口から吐き出すと息を同様には大河の身体から離れようとした。が、そう出来なかったのは、大河がの腕を掴んで離さなかったからだ。そしてその腕をぐいっと自身の方へと引っ張ると、あっという間には大河の胸に飛び込むような形になった。先ほどよりは遠い、けれどもいつもよりも断然に近い距離に鼓動が騒ぎ出す。それが果たしてなのかそれとも大河なのか、もうわからなかった(きっと二人のなのだろうが)大河の双眸にの紅く染まった顔がくっきりと映り込んでいる。「し、みずく、」戸惑いの声が大河の耳に届いて、はっと我に返った。
「お、お前のせいで遅刻」
言ったのは、本来言うべきではない言の葉。同時に解放される腹にまわされた腕の束縛。ベシっと大河はの頭を小突くと右手で掴んで離さなかった手すりに力を込めて立ち上がった。その様子を動けず黙って見ているのは、だ。「先、行くから」大河はつっけんどんに言い捨てると、の顔も見ず階段を駆け上がった。その表情は、先ほどの火照りとは比べ物にならないほど赤みを帯びていた。耳までも浸透する赤を悟られぬように一段ぬかしで駆け上がると、あっという間にから大河は見えなくなってしまった。
*
*
*
「…ぶねえ…」
まじ、危なかった。駆け上がった先の踊り場で、大河はしゃがみこんだ。後数段上れば屋上にたどり着く。それでもこの顔で練習になど出られそうにない。ドクドクとまるで全血液が総動員して動き出しているかのように、激しく波打つ感覚。まるで身体全部が心臓になったように耳の裏をドクドクと血が駆け巡るのがわかった。
ため込んだため息を吐き出して、大河は先ほど触れた唇の横に手を当てた。ほとんど口に近い位置を掠めた、の唇。心臓が、止まりそうだった。もしあの時、触れた瞬間少しでも自分が、もしくは彼女が動いていたら、互いの唇が重なり合っていたのだろうか。そんな思考を振り払うように頭を横に振りみだした大河は立膝に腕を乗せおでこを寄せた。瞳を閉じれば鮮明に蘇る出来事。そして、昼間の自分の発言。
『ちゅーしちゃえば良いじゃん』
はっきり言って、キスなんてそんな大した事じゃないと心のどこかで思っていた。けれど、違うのだ。実際その場になったら、出来ないものなのかもしれない。かっこわりぃ。微かに飛び出た言葉はすぐさま誰の耳にも届くことなく消える。きっとこれが以外だったら、そんなに慌てることもなかったのかもしれない。けれど反対に怒っていた可能性は否定できない。そう考えるとでよかったとも思う。おいしいシチュエーションじゃんよ。心の中で言い聞かせたが、そんなポジティブには考えられそうにもなかった。
「あーもう…」
今、真下にいるであろうは一体どんな顔をしてそしてどんな感情を抱いているのだろうか。願わくば自分と同じであれば良い。まるで中学生以下のような自分の行動に、俺も姉貴と大差ねえじゃん。苦笑を洩らしたが、それもまあ悪くないかもしれない、と大河は小さく笑った。
― Fin
あとがき>>すみません、なんか意味が、わか、ら、な、い…。こう、なんか大河をドキドキさせたかったんです。そしてそのドキドキの速さをメトロノームに例えたかったんですが、ゆっくりとした鼓動をどこでかけばいいの、か…わから、な、く、て…。でもタイトルが他に決められなくって…ああはい。タイトル、話に合ってないです。そして、なんかヒロインの出番もあまりなくてすみません。こう、寿也のM&Tとは別の意味での「友達以上恋人未満な関係」が書きたかったんです。出直します(どうでも良いけど、キスシーンで初めの描写唇と唇だと騙された方はいるでしょうか。いたらいいなぁ笑)
2009/01/22