失恋後のエマージェンシー
「別れよう」
短い言の葉。けれども、その一言で、全てが終わった気がした。突然の出来事に、私はただただ呆然と彼を見詰める事しか出来ず。
そして、数秒後には、私と彼の関係に終止符がうたれた事を、悟った。二年間連れ添った恋人との、終焉。それなのに、私の瞳からは涙がこぼれる事はなかった。
いつも隣にあったぬくもりが、その一瞬で脆くも崩れ去ったと言うのに、それでも、私は泣けなかったのだ。
「、フラれたんだって?」
デリカシーの無い奴だとは、常々思ってはいた。けれども、ここまで空気の読めない男だとは思っていなかった。
軽く苛立ちを感じつつ、私は数学の問題集を見つめながら肯定する。正直、数学は苦手だ。今取り組んでいる問題も私にとっては難問故、更にイライラが募っていく。
「なんでフラれたの?」
普通、傷心しているだろうとか、思わないのだろうか。
しかも"なんで"なんて、こっちが聞きたい。私はただ『別れよう』と彼から告げられただけだったのだから。
「知らないわよ、そんなこと」
思わず口調が厳しくなるが、そのくらいじゃ何とも思わないだろう。見た目は儚げ(認めたくないが)美少年だが、実際コイツの心臓は毛が生えてるくらい図太い。
そうそうこちらの攻撃に傷つくこと等ないのだから、大丈夫だろう。私の勘は当たったらしく、男は何食わぬ顔をしてぽりぽりとクッキーを食べている。
袋の包装からしてきっとどこぞの女の子から貰って来たのだろう。ほんとう、嫌味なくらい顔だけは良いのだ。まあ、一部の人には外面も良い。
隣から漂ってくる甘ったるい匂いに、胸焼けがしそうだ。
決して私は甘いものが苦手ではないが、今このタイミングでは勘弁してほしい。こちとら一応フラれた事に対してへこんでいるのだ。
二年間。
決して短いものではなかったと思う。それなのに、こうもあっさり別れることになってしまったことに、今になってようやく実感が沸いてきた。
もう彼の一番近しい女子と言う関係はなくなってしまったのだと思うと、ぽっかりと胸に穴があいたようだ。
悲しみにふけっていると言うのに、横から聞こえてくるのはお菓子を咀嚼する音。
「……ちょっと、お菓子食べるんなら余所で食べてくんない」
「やだ」
やだ、って子どもじゃないんだから!口に出して言いたくなったけれども、そんなので聞くような奴じゃないのはわかりきっていた。
感傷に浸る暇さえ与えてくれないとは、どういうことだろうか。異論の意味を込めてじろりと睨んだけれども、やっぱり総司には届かなかった。
「でも、意外に長かったよねえ。二年だっけ?僕そんなに続いた事ないなー」
「……総司は、早すぎだと思うけど」
「きっと、相手はに飽きちゃったんだろうね?」
くつくつと、笑う仕草は、まるで子供のように無邪気だと思った。きっと先ほどの私の発言に対する彼なりの冗談混じりの仕返しだろう。
けれども"飽きた"。その一言に、今回ばかりはいつものように強気で返す事等出来る筈もなく、私の心は沈んだ。
黙りこくっていると総司がそっと私の髪に触れた。顔をあげると、やっぱり奴は笑顔で。
「あれ?もしかして、傷ついちゃった?」
「…っ」
「もしかして、そんなにあいつのこと好きだったとか?あんな、どこにでもいそうな相手が」
泣きそうに、なった。意地悪な発言は今に始まった事じゃないのに。それでも今日ばかりは流せそうにない。
総司からしたら、どこにでもいそうかもしれない。特別とびぬけた何かを持っていたわけじゃない。でもそんなの関係なく、私は。
「…悪い?」
好き、だったのだ。先の事等わからないけれど。
まだ、高校生のガキが。って大人たちには言われるかもしれないけれど。
それでも、多分この先も一緒にいられるんじゃないかって、本気で思っていたのだ。
「あれ?泣いちゃった?」
「…る、さい」
「あいつの事を想って流す涙なんて、…妬けるね」
「うるさいっ」
「でも残念。もうあいつはの元には帰ってこないよ?」
「うるさいっ!!」
はじかれたように流れ出る涙は、止まらなかった。
総司の言葉をこれ以上聞いていたくなくて、私はガタン、と椅子から立ち上がり両耳を塞ぐ。
なんで、そんなこと言うの。帰ってこないなんて、そんなこと総司に言われなくても自分が一番、良く分かっているつもりだ。
「別れよう」そう言葉にした彼の顔は、今でもはっきりと思い出される。その声も、その表情も、今まで隣にあったものではなく、…そこで私は確信したのだ。
きっと、引き留めても無駄なのだと。きっと、何を言っても彼の重荷にしかならないのだと。そう思ったら、私は何も言えなかったのだ。
ただ、"うん"と。
ただ、"わかった"と。
頷く事しか、私には出来なかったのだ。
「」
一切の音を遮断したいと思うのに、何故それを許してくれないのだろう。
私の名前を呼ぶ総司の声をとにかく消したくて、無意味に首を横に振る。そんなことしたって消えてはくれないのに。
「そんなに好きなら引き留めればよかったのに」
「そんなこと言えるわけ、ない!」
「なんで。そいつのこと好きだったんでしょ?」
「だって、別れようって言われたら、もう仕方ないじゃない!」
「嘘だね。は逃げたんだよ。これ以上傷つきたくないから、戦うのを放棄したんだ」
「うるさいっ」
「都合悪くなると、すぐそれだね。は」
総司の言う通り、だった。
本当は、いかないでと泣いてすがりたかった。
でも、最後に私が取ったのは、ちっぽけなプライドだった。
……―――彼の重荷になりたくなかったなんて、ただの建前。
本当は、「行かないで!」と泣いてすがって、散々彼を困らせた後「こんな奴と二年間も付き合ってたのか」って思われたくなかったのだ。
私にとっての素敵な二年間を、後悔されたくなかった。…ほんとくだらない、プライド。
「聞きわけの良いふりして、挙句相手の事未練たらたらなんて、可哀想な」
「…っ」
「いい加減そんな奴の為に泣くのやめなよ。君はフラれたんだから」
「総司に、は関係、ないっ」
何度も言われなくったってわかってるつもりだ。両の耳を押さえてた手は、迷う事もせず総司の方に飛び、それは見事頬にヒットする筈だった。
けれども私の行動パターンを見越したのか、右手はあっさりと止められてしまった。速度を失ってしまった私の利き手は総司の掌の中におさまってしまった。
「離してっ」
「いやだ」
子どもみたいにそう言うくせに、私の手をにぎる手からは力強さを感じずにはいられない。
離して、と何度も繰り返すけれど、総司は「いい加減泣きやみなよ」なんて難しい事を言う。
自分で止められないから、駄々漏れさせてるんじゃないか。それくらい、総司ならわかってる、くせに!
「も、ほっと、いて!」
それが引き金となり、瞬間総司が息を呑んだ。
私の言葉を見事無視して、そのまま私の右手を引っ張った。ガタン、と机が鳴る。
あ、と思った時には総司の右手が私の首裏を掴んでいて、強引に引き寄せられる。机を挟んで私の頭と総司の胸との距離が、ゼロになった。
「そ、じ」
総司の服に密着しているせいで、くぐもった声になったが、なんとか形になってくれたようだ。
「ほっとけるわけ、ないでしょ」
ぽつり、と降ってきたのは…弱弱しい言葉。―――きつく、ぎゅっと抱きしめられる。
机を挟んだこの状況で、抱きしめられると言う表現は、正しいのかはわからない、けれど。
「は、あいつにフラれたんだよ。もうあいつはなんて好きじゃないんだよ」
その言葉は、酷いものなのに、何故か、先ほどのように涙は出なかった。
それなのに、胸が締め付けられる程苦しく思ったのは頭の上から聞こえてくる声が、あまりにも淋しげだと感じてしまったから。
突然総司の掌が緩んだおかげで、何とか顔を離す事に成功し、見上げる。…さらに、胸がぎゅって、なった。
「……なん、で」
だってそこには、今にも泣きそうな笑顔があったから。
「なん、で総司が、泣きそうな顔、してるの」
振られたのは私。総司に酷い事言われたのも私。泣きたくなるのは私の方の筈なのに。
そんな顔、されたら泣くに泣けない。まるで、目の前の総司は、自分が傷ついた顔、してる。
「なんで?…ほんとに君は残酷だよね」
そんなこと、僕に言わせる気?
その顔は、笑顔なのにもう泣いているようだった。
きつく、胸が締め付けられる。喉がからからに乾いているのは、始めてみる総司の弱気のせいだろうか。
「誰だって、好きな女の子が違う男の事を想い続けてたら、泣きたくもなるんじゃないの?」
ほんと、君は馬鹿なんだから。
「でも、もうあいつには返してやらない。だから、今度は僕を、僕だけをみなよ」
不意に触れたのは、今まで知りえなかった彼の本心と、温かな唇の体温。
その時には、さっきまで消そうと思っても頭の中から絶対出て行ってくれなかった大好きな元彼はすぽんと消え去って、目の前の総司の事で私の心は占領されていた。
心に芽生えた気持ちはまだ恋とは呼べないものだけれど、それでも着実に総司は私の心の中に入ってきたのだ。
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エマージェンシー→「非常事態」
20107.03