卒業式後のフォーアシュピール
「最後だから」―――そのキッカケは、すこしだけ哀しかった。
三月と言っても、春というにはまだ寒すぎる日。先月の終わりなんて、まだ雪が降ってたくらいだし。
ああ、でも最近開花した桜を見れば、春って感じなのかも。でも、春だと思わせるのは、もっと別の事。―――今日が、お別れの日だからだ。
見上げた空は、透き通るぐらいの綺麗な青で。涙が出るほど、澄んでいた。そして、今日。この日、あたしたちは卒業する。
着なれた制服が、今日はいつもとは違う風に感じるのは、普段と違ってきちんと整えているからだろうか。
あたしは別に不良だとかそう言ったグループの子ではなかったにせよ、校則完璧重視って言う模範生でもなかった。
それなりの子と同じようにそれなりに制服を着崩していたので、今日のこの格好はほんの少し、違和感。
普段は第一ボタン留めない癖に、今日はしっかりと閉めているし、緩みのないリボン。膝小僧すれすれのスカート。
まるで、入学式と服装指導以来の格好だ。普段ならそんな真面目ぶった服装なんてダサいだとか、田舎くさいだとか馬鹿にするのに、今日ばかりは誰もそんなヤジを飛ばさない。
改めて自分の格好を見ると、指定の服装が、少しだけいとおしく感じられた。
全校集会でいつも飽き飽きしてた校長先生の言葉も、もう二度と聞くことがない。そう思うと、いつもはウザったらしい長話も、特別な言葉のように思えてくる。
「最後だから」そう思う気持ちが、しんみりとした雰囲気を醸し出しているんだろうと思うと、胸の奥がきゅっとなった。
「最後だから」と、卒業式こっそり盗み見た彼の横顔を見る。
涙が出そうになったのは、「最後だから」なのか。…酷く、胸が痛んだ。

「さん」
唐突に呼ばれた名前に振り返って、目を見開く。
声で分かったけれど、まさかと思った。
「佐藤く、ん…」
「どうしたの?もう皆帰ったみたいだけど?」
そう言って教室を見渡すクラスメイトを目の前にしながら、私はただ呆然としていた。だって、まさか自分の想い人に遭遇するなんて、思っても見なかったのだ。
不意に目に入った彼の姿。佐藤君の格好は卒業式に見た時にはキッチリと第一ボタンまで閉められていた学ランが今や面影も無くだらしなくはだけてしまっている。
良く見れば、いつもはきらりと光る金色のボタンが見事なまでに一つもない。手首にもついているハズなのに、それさえも、だ。
唖然と見つめていると佐藤君は視線に気づいたのか、彼はちょっと首を傾げた後、自分の姿を見てあたしの考えを読み組んだようだった。
整った顔立ちが、くしゃりと歪む(と言ってもそれさえも素敵、なのだけれど)
「取られちゃったんだ、ボタン」
「あ、…う、ん。そうみたいだね」
苦笑を介さない佐藤君に、あたしはどうにか返事をしたが、少し声がかすれたかもしれない。
…恋する乙女は、凄いな、と改めて想ってしまったのだ。「佐藤寿也」は綺麗な顔立ちと野球部キャプテンと言う立場、そして成績優秀で誰にでも気さくで優しいと女生徒からは物凄く人気があった。
一部ではそんな彼のファンクラブなんてものがあったくらいだ。だから、だろう。ファンクラブのルールってやつで、間接的に騒ぐものは多かったけれど、直接アタックする勇敢な猛者は滅多に現れなかった。
でも、さすがは卒業式。
「最後だから」なのか、今回ばかりは直接アタックするものが多かったと言う事だろう。
「やっぱ、人気者って、凄いんだなあ」
思わず、そう漏らしてしまった。あたしは直接的に佐藤君に群がってボタンをほしがっている女の子と言うものを見てはいなかったけれども、何となくは想像がついてしまった。
ぼんやりと頭の中でその光景を妄想していると、佐藤君が「大げさ」と小さく笑うのがわかった。
「人気者って言うのかはわからないけど…まあでも、凄いなって他人事のように関心してしまった、かな」
たはは、と笑う表情はどことなく疲れているようにも見えた。よほど、吃驚したんだろうことが予想される。
彼の様子を見ると、ちょっと同情してしまう。佐藤君のボタンに群がる女生徒の大群。そりゃあ、ビックリだ。周りですら多分驚いているだろうがそれを直に受けた本人は相当のモノだろう。
「まあ、でも…第二ボタンは何とか守ったけど」
瞬間に聞こえてきた声に、あたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。
だって、今佐藤君の口からは明らかに「第二ボタン」と言う単語が出たのだ。
第二ボタン―――昔から、乙女の憧れのボタンだ。好きな人の第二ボタンを卒業式の日に貰う。
もう何年も前からのジンクスだけれど、一説に、第二ボタンと言うのは心臓に近い事から「貴方のハートをください」と言う告白の意味らしい。
この場合ハートと言うのは想いとイコールで考えて良いと思う。そんな大事なボタンを、佐藤君は守ったと言うのだ。
あたしと佐藤君は其処まで親しい仲ではないにしろ、彼は余りにも色々有名すぎたので、なんとなくは彼の人となりを知っている。
と、言うのは建前であたしが彼に惚れている、と言うのが大きく関係しているんだろうけど。が、意外に彼は恋愛方面には疎い方だと思っていた。
だからきっと第二ボタンの由来なんて知らないと思っていた。きっと誰かに言われたらそのまま何の気も止めずにあげちゃうんだろうな、って思ってた。
―――…今の佐藤君の言葉を聞くまでは。
あたしの考えは見事顔に出てしまっていたのか、佐藤君が可笑しそうに笑うのが見えた。
プリンススマイル。多くの女生徒がノックアウトされた顔、だ。その笑顔に少なからずあたしもドキドキした事がある。
でも、そこまで考えて、あたしはふと疑問に思う事があった。
第二ボタンを死守したと、彼は言った。けれども、何故それをあたしに言う必要があったのだろうか。と。
だって、あたしと佐藤君は特別親しい間柄ではない。野球部員とマネージャー、とかそういった関係ではなく、ただ中学三年の一年間同じクラスだっただけだ。
同じクラスだったと言っても、席が近くなる事なんて無かったし、まあ…顔を見合わせれば挨拶をするような、そんな関係。でも彼の気さくな性格からしてそれはあたしに限った事ではなく誰に対してもそうだったのだから珍しい事ではない。
「さん、なんで?って顔してる」
くすくすと笑い声と共に降ってきた言葉に、あたしははっと気付いて彼を見つめた。
そうすれば笑うと同時に彼の綺麗な髪の毛がふわふわと揺れるのがわかる。ああ、なんか佐藤君て、ほんと…鋭いなあ。
なんでもかんでも見透かされたような気になって、ちょっとだけ気恥かしかった。思わず俯くと、教室の茶色の床が視界に入る。それからしばらくして、トントン、と靴の音が聞こえて、あたしの視界に上靴が映り込んできた。この状況から、それが佐藤君のモノだと容易にわかる。
「さん」
顔上げて。と続いた言葉に、あたしはそっと頭を上げる。そうすれば、幾分も高い佐藤君の姿が先ほどよりも随分近くにある。
こんなに近い事、今まで無かったから、ちょっとだけ緊張してしまって彼を呼ぶ声が、少しだけ震えた。
そうすれば、佐藤君がまた小さく苦笑して、ちょんちょん、と佐藤君自身の顔を指さして「さっきのさんの疑問そうな顔の答え」と柔らかな声が降ってきた。
「誤解、されたくなかったんだ」
「え?」
言われた言葉がよくわからなくて、あたしは小首をかしげる。そうすれば、佐藤君は学ランの右ポケットをごそごそ漁って、右手をあたしの前に突き出した。グーに握られた手が、そっと開く。
掌の上には、金色に輝くボタン。唯一死守したと言われる、第二ボタンだ。じっとそれを見やってから、そっと佐藤君を見上げる。
「このボタンだけは、好きな子にあげたいって、ずっと決めてたから」
その声も、
その眼差しも、
その表情も、
何もかもあたしが見る佐藤君の「初めて」で
「だから、さん。…これ、貰ってくれないかな?」
ドキドキして、言葉にならなかった。けれど、その中でも気付いたのは、これが「最後」ではない事。
後書>>季節はずれも良いトコです。
フォーアシュピール→音楽用語で「前奏曲」
20105.13