そして、嵐のような一日は過ぎていき、次の日、本当にあの男の子……切原赤也という中学生はやってきた。 「アイスコーヒー一つ下さい!」 笑顔で言われ、私は思わず大きなため息を漏らしてしまった。 落ち着ける場所 「はい、これ」 切原が入ると、はずいっと彼に近づいて、昨日のアイスコーヒーのおつりを差し出す。それをきょとんとした目で切原は見やると「ハイ?」と首を傾げた。そんな切原の様子に呆れながらも、は「昨日のおつり」と付け加えて、更に切原の前へ突き出す。すると切原はようやく思い出したのか、ああと頷いてポケットに入れていた手を出して、そのお金を受け取った。それからを見据えて。 「預かってくれてたんスね!」 「……あなたが預かれって言ったんじゃないの」 にっかと笑うと無駄に高いテンションのままお礼を述べた。そんな切原の感謝を表す笑顔を細目で見やって、はぷいっとそっぽを向く。その反応に左手の人差し指で、鼻の下をこすってへへっと照れたように笑う切原。そうして、の顔を覗き込むようにして、体を前かがみに倒す。その瞬間、は切原と目が合って、慌てて視線を逸らした。 落ち着け自分!相手は中学生! 早く脈打ち始めた胸に、心の中では言い聞かせる。そう思うと、何だか大丈夫になったようだ。 心臓の音もまた普段と変わらない速度で動き始めた。それに安堵し、冷静さを取り戻したは小さくため息をついた。それから注文を受けたアイスコーヒーを用意すべく奥の部屋へと入ろうとしたときに、また、かかる声。 「ねえねえ、サン!」 自分を呼ぶ声に少しドキっとしながらも、先ほど静まった鼓動は思いのほか冷静だった。「……何よ」と、奥へと入って、アイスコーヒーの準備をしながら、素っ気無く答える。がらがらと氷の音がする。それでも、の耳には切原の声が良く聞こえてきた。 「俺、テニスやってるって言ったじゃないっスか〜。それで今、関東大会の決勝まで勝ち進んでるんスよ」 「そう、凄いね」 テニスをしてる、そう言った切原の声は、今までのどの声よりも弾んでいて、楽しげだった。本当にテニスが好きなんだ、とは思う。コップにコーヒーを注ぎながら、切原の言葉に適当な返事を返す。自分でも思うが随分酷い声色だ。けれども切原は、返事が返ってくるようになったことが嬉しくてたまらない様子だった。楽しそうに言葉を続ける。次の言葉を紡ぐ前にふふんと鼻で笑ったような声が聞こえたのは気のせいか。 「当たり前っスよ〜!なんてったって昨年、ウチの学校は全国優勝したんですからね!」 気のせいではなかったようだ。嬉しそうに言い放った言葉に少なからずは驚いた。 「そんなに強いの…?」 思わず、持っていたコーヒーを落としそうになったほどだ。しかしなんとか踏ん張って、それを切原の前に置く。……まあ、全国まで行くのだから、相当な腕なのだろう。は大きな瞳で切原を捉えると、切原はまたへへっと右手人差し指を鼻の下にやる。きっと、これは彼の癖なのだろう。そんなことを頭の隅で考えながら、は感心したような声を出した。 「へえー……私、テニス具体的にどんなのか知らないけど、君が凄いってことだけはわかったわ」 多分、今日一番感情のこもった返答だったろう。真面目な顔して切原を見やれば、切原が一瞬きょとんとした顔をして、それからにっと笑う。けれども、さっきまでの嬉しそうな笑顔ではない。どちらかと言うと…そう、何か、悪さを思いついた子どものような…。そんな切原の表情の変化に気づいて、はすっと目を細めた。 「惚れました?」 意地悪く笑い。やっぱりな、なんとなく想像がついていて、は心の中でため息をついた。随分と平然と居られるのは、きっと予想の範疇だからだろう。こんなことで一々慌てふためいては奴の思うツボだ。はふう、と小さくため息をついた。すると、切原がサン?サン?と何度かの名前を呼ぶ。その声に応えるように切原を見つめ、それから薄らと笑顔を浮かべた。初めて見るの笑顔に切原の脳内が一瞬ストップして、少し呆気に取られたような顔をした。その瞬間を狙うと、は至って平然と言い放った。 「年上をからかわない」 それからぽけっとしている切原の頭を軽く小突く。切原は突然の攻撃に少し驚きつつも、すぐにすんません、と笑いながら謝った。その笑顔に少しばかりときめいてしまったのはきっと惚れた弱みなのだろう。ぼんやりと考えていると、切原は笑ったままの表情で言葉を続ける。 「でも、なんか、サンって、年上って感じがしないんですもん」 しかも五十歳なんて…、と言いながら訝しげにを見つめた。はその言葉にぎくっと肩を振るわせる。先ほどの偉そうな態度は消えてしまって、今度は顔が引きつって見えるほどだ。は、言わなければ……と覚悟を決めて口を開いた。 「あ、あのね?切原君……」 本当は、五十歳なんかじゃないの。…そう言おうと思った。けれども、それがの口から出ることはなかった。 「サンッ!」 そう、の躊躇いながら発した言葉は、切原の言葉によって遮られてしまったからだ。も行き成りの大声にびくっと体を強張らせ、切原を見やる。すると、先ほどの声とは対照的に、切原はへらりと笑っていた。 「覚えてくれてたっスね!」 「はい?」 「俺の名前!」 感激だな〜と切原は後頭部に手をやる。どうやら、に名前を覚えてもらっていたことが嬉しかったらしい。からしてみればそんなこと…なのだが、切原はそれでも嬉しいと笑った。大体にして昨日聞いた名前を今日忘れるほど自分の脳みそは落ちぶれてない。そう思ったが、目の前で本当に嬉しそうに笑っている少年を見ると、口に出すのは何故か気が引けた。 「でも、出来るなら、苗字じゃなくって名前で呼んでほしいっスけどねー」 「……私、さっき年上をからかうなって言ったよね?」 鋭い目つきで睨むと、切原はうおっと椅子を引いた。よほど驚いたらしい。その反応を、は満足げに見てから移動する。……切原の向かいのカウンターへと。切原はその行動を追うように目を走らせて、が定位置に付いた瞬間、「じゃあ、じゃあ」と身体を乗り出しての顔を覗き込む。切原は座っていて、は立っているため、どうしてものほうが背が高くなり、見上げられる形で切原と目が合った。見下ろす形のまま何?と素っ気無く応えると、切原はまたにやりと悪巧みをするような、怪しげな笑みを浮かべて人差し指をぴんと立てた。 「今度俺がテニスで勝ったら、名前で呼んでくださいよ!」 突然の申し出に、は素っ頓狂な声を上げるしか出来なかった。 「はあ?」 呆れたように言い返せば、切原はそんなこと聞いちゃいない。約束!と一人で勝手に納得すると、切原は一気に出されたアイスコーヒーを飲み出した。するとごくごくとのどが鳴る音が聞こえる。その光景をは唖然と見ている。と言うか見るしかないだろう。きっと彼に何を言ったってもう無駄だ。それは今までの彼を見てからの経験なのか。そんなどうでも良いことを思っていると、彼はあっという間の速さでそれを飲み干した。 「ゴチっ!」 そう言って、ごとん、とコップをソーサーの上に置く。そのときからんと氷の音がした。すると切原は立ち上がって、かばんとテニスバックを肩にかける。そうして、素早くドアへと向かっていった。 「んじゃ、また来ますねー!」 「はいはい」 ぶんぶんと手を振る切原。それを呆れた表情で答える。それを確認すると切原は店を後にする。はふう、とため息をついて、コップを片付けようとそこに目を落とした。そうして、は目を見開く。 「あ、あ、あ……!あいつ、お金払ってない……!!」 勢い良く店を飛び出すが、もうそこには切原の姿はなかった。今度来たときには倍の料金を払ってもらう。そんなことを考えながら、は店へと入っていった。きっとまた明日にでもくるだろう…そう深く考えていなかったのだ。 ― Next あとがき>>少しばかり書き直してます。 |