どうせ明日も来る。
何を根拠にそう思っていたのだろう。





落ち着ける場所





「……来ないよ、あいつ……」

次の日、きっと来るだろうと思っていたのに、あれから切原はぱったりと姿を見せなくなった。まさか、本当は飲み逃げが目的だったのだろうか……とは頭の中で考える。まあ、あれから……といってもまだ三日しか経っていないのだが、それでもは一年は会ってないんじゃないか、と言うような感覚に襲われていた。それほどまでにあの少年のことの存在が大きくなっているのか、は考えてため息をつく。たかだか中学生のあの子になんで私がこんなに落ち込まなきゃならないんだろう。

「ったく……」

はぼやきながら、まだ誰もいない店のカウンターに一人座っていたが、小さなため息をつくとともに席を立った。そのとき、からんと言う音が店内に響き渡った。客か、少し苛立ちつつもそれを感じさせないように、表向きは平静を装って、振り返る。いらっしゃ…とまで言った瞬間、は手の内を引っくり返したかのように、眉根を寄せた。

「やっと来た!」

振り返ったが目にしたのは、切原だったからだ。普段のからは想像つかないような少し大きめな声。ほんの少し怒ったような口ぶりで「この前のお金払ってなかったわよ」と注意を促す。さて、これで切原はどんな態度を示すのか。切原のことだからきっと笑いながら軽くごめんと謝るだけだろう。そうは予想した。…のだが、彼女の予想は崩されることになる。今日の切原はいつものような元気が無かったからだ。いつまで経っても俯いている切原を不安に思っては戸惑いながら、声をかける。

「ちょっと、ど、どうしたの?」

冷静に対処しよう、そう思ったものの軽く裏返る声と噛んでしまった台詞で、自分が冷静でないことを知る。それでも、今この少年を放っておくことはには出来ず、切原に近づいて少しばかり背の高い切原の顔を覗き込んだ。目が合った瞬間、切原はばっと顔を上げる。その顔は今にも泣きそうで、はそんなに酷いことを言ってしまったのか、と少し罰の悪そうな顔をした。ゆっくりと切原が言葉を紡ぐ。

「負けちまいました」

紡がれた言葉はの想像するものとはまるで違っていた。

「え?」

よくわからない、と言うニュアンスを込めた言葉を切原に送る。けれども切原はそんなことはどうでも良いのか、はたまた聞こえなかったのか、またはそんな余裕がないのか、そのまま言葉を続けた。

「しかも一年にっスよ、本当情けねぇ」

ますますは切原が言ってることがわけわからなくて、目の前で苦笑している少年を訝しげに見つめた。
彼の言わんとしていることが理解できなかったからだ。けれども彼が今泣きたいのを我慢していることだけは、伝わり、は寄せていた眉を戻す。

「どうしたのよ」

それから、意識して優しげな声で、切原に問うた。そうすれば切原はを見て、それから負けた、とまた繰り返す。その一言がさっきよりも重く感じるのはきっとの気のせいじゃない。切原の言った言葉を頭の中でリピートさせて、は暫く考えた。そして、ある結論にたどり着いた。

「テニス?」

一言。そう一言だけ呟くように問いかけると、その単語を聞いて、びくっと微かに切原の肩が震えた。本当に小さな動きだったけれど、はそれを見逃さず、ふう、と小さな息を漏らす。

どうやら、当たりだったようだ。

は切原の背中をぽんぽんと優しく叩いていたかと思うと、次の瞬間ばしんと力強く叩いた。いきなりの彼女の攻撃に切原は避ける暇もなく、彼は思わず「いてっ」と声を出す。じんじんと背中が痛んだ。切原は驚いての顔を見た。そうすれば震えているの姿が目に入る。…怒っている、瞬時に切原は悟る。

「だらしない!」

キッと睨まれたかと思うと、聞こえてくるのは怒声。ああ、やっぱり怒ってる。切原は思いながらの名前を呼ぼうとした。

さ」
「だらしないわよ!たった一回負けたくらいで!いつもの元気はどうしたの?落ち込みたいのはわかるわよ!でも、だからっていつまでもうじうじしてちゃ駄目なんじゃない!?勝つものも勝てなくなるわよ!」

けれども、切原の言葉を遮って、は一気に捲くし立てた。そうして言い終わったは、はあ、と酸素を取り入れるため息を吸い込む。切原は、ぽかんとを黙って見ている。その姿をは横目で見やると今度は小さな声で呟いた。

「だから……だから、いつもみたいに、笑ってなさいよ……」

その言葉を聞いて、切原は目を見開いた。目の前に立っているはいつものすまし顔じゃない。どこか淋しそうで反対に泣き出しそうな顔して、少しばかり顔を赤らめている。切原は、まいったな、といったように頭をぐしゃぐしゃと乱暴に掻きあげるとすんませんとに謝った。

「わ、私は別に、謝って欲しいわけじゃ……」

は慌てながらぷいっとそっぽを向く。すると、の肩のほうに少し重みが加わった。不思議に思い、ゆっくりと顔を向ける。切原が自分の肩に額をつけるようにして俯いていた。

「ちょ……」
「だって……約束したじゃないっスか…。今度テニスで勝ったら、俺の名前サンに呼んでもらうって」

それなのに、負けちゃったから、ショックで……。と、切原は続ける。は弱々しい切原の言葉を聞いて、驚いた。

え……まさか、それだけのために、こんなに落ち込んでるの……?

はもう一度肩に顔を埋めている切原を見やる。相当堪えてらしかった。ははあ、とため息をつくと、言葉を紡いだ。

「バーカ」
「っ…サン、ヒデェ!俺真剣に……!」

の言葉にがばっと顔を上げる切原。きっと呆れ顔で自分を見ているに違いない。そう思いながらを見ると、の顔は、優しい表情をしていた。

「ほら、いつまでもこんなところで突っ立ってないで、席につきなさい。……いつものアイスコーヒーでいいでしょ?……赤也君」
「……へ……?」

切原は呆然と立ち尽くしていたが、我に返ってを追うように歩き出す。がカウンターの奥の部屋へと入ろうとした瞬間、切原は躊躇いがちに口を開いた。

「い、今サンなんて……」
「アイスコーヒーでいいでしょって言ったけど?」

そうして、ドアの手前で一度振り返って首を傾げる。
それに切原は「そうじゃないっスよ!」と声を上げた。

「今、名前で!」
「あ、今日こそはお金払ってもらうからね」

切原の言葉を流してはにこりと営業スマイルを彼に向けると、部屋の中に入ってしまった。切原は尚もそうじゃないと叫んでいたが、はそれを無視する。……しかし、切原は知らない。部屋の中で、が嬉しそうに微笑んでいたのを。
今日の天気も、憎らしいほど快晴で。とってもじめじめしていた。





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あとがき>>ちなみにどうでも良い事ですがヒロインの名前も変わってます〜(ホントどうでもいいな…オイ)