「ほら、いつまでもこんなところで突っ立ってないで、席につきなさい。……いつものアイスコーヒーでいいでしょ?……赤也君」

彼の名前を呼んで、少しだけ照れた。
そのせいで、それ以降彼を名前で呼べていない。





落ち着ける人





「チィーッス!」

あの一件以来、切原は毎日のようにここへ来るようになった。今までは勿論これは仕事なので、営業スマイルで彼に接していた。それでも顔には嫌です。としっかり書かれたような顔つきで彼を迎えていた。けれども、最近それが丸くなったように思える。今までと関係が180度変わったわけではない。しかしかといって、何もなかった、とも言えない。は、笑顔を取り戻した切原を見やると、彼に気づかれない程度に、口元を緩めた。

「いつもの、でしょ?」
「ウィッス!いつもの、お願いしまっス」

いつもの、とは、切原がここに来るたびに飲んでいるアイスコーヒーである。は切原が言う前にその名前を口にすると、すぐさま切原に背を向ける。そうして切原がその通り、と頷くとは奥の部屋へと入っていった。切原はの背中を見つめて、が入ったことを確認すると、カウンターへと腰を下ろす。このカウンター、左から五つ目の席は、もう切原の特等席のようになっていた。

サーン」
「何よ」

奥にいるに、切原の声が届く。前はあんなに呼ばれることを疎ましく思っていたのに、不思議と今は嬉しかったりする。少し男にしては高めの声がなんとも心地よい。そんな風にまで思ってしまう自分に気づく。はコップにコーヒーを注ぐと、それを持って奥の部屋から顔を覗かせると、切原の座っているテーブルの前にそれを置いた。

「で、何?」

あくまで、平常心を忘れずに…。の口調はなんとも素っ気無かった。相手に気づかれたくないから、なのだけれども。意識的なそれは、きっとはたから見ても彼女が切原に惚れているなどとはわからないだろう。

「ンー……」

の問いかけに曖昧な返事を返す切原。その言葉と共に、切原の目の前のコップがことん、と小さな音を立てた。切原はコップからはみ出しているストローを人差し指と親指で挟む。そのストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら、切原は頬杖をついた。

「一つ、聞いてもいいっすか?」

じっと見つめてくる瞳に、少しだけひるみそうになるものの。

「どうせ、駄目って言ってもしつこく聞くんでしょ」

さっさと言いなさいよ、と呆れた風に言う。やっぱりは冷静だった。すると切原は「はは、バレました?」と笑う。へへ、っと人差し指で鼻を掻くのは彼の癖。その癖を見るたびに、頬が緩んでしまうのは、きっと惚れた弱みなんだろう。そんなことを思いながら、は切原の出方を待った。

「えっと、サンって、ここのマスターなんっすか?」
「……え?」

思わず、声を漏らす。しかしそんなことなど気にせずに切原は、この小さな空間をきょろきょろと見渡しながら「凄いっスねー」と感嘆の声を出す。切原の台詞を頭の中で何度かリピートさせたはようやくその言葉を理解する。理解したは、そんなわけないでしょ。と素っ気無く返した。その返答に切原の瞳は、再度彼女に向けられる。…違うんだ?…そう瞳が物語っているようで、続きを待っているんだと言うことがには手に取るように判り、ふう、と小さなため息をついた後、話し始めた。

「ここは、父の経営してる店なの」

言えば、切原はオウム返しに「……サンの父親が?」と返してくる。はそれにこくりと肯くと肯定の意をあらわした。その動作を見やった切原は、へーまた一つさんのことが知れた、と嬉しそうに笑う。しかしすぐに切原は、あれ、と不思議だ、というニュアンスを込めた声を口から発した。は首を傾げてどうしたの?と問う。その問いに切原はンーと唸りながら、瞳を難く閉じた。

サンのお父さんが経営してるのに、なんでそのお父サンはここに出てこないんですか?」

瞑られた瞳を、ぱっと開いたかと思ったら、切原は首を傾げた。その言葉にの体が一瞬びくっとする。それを切原は見逃さず、鋭い視線でを捉えた。





暫し、沈黙が続く。重々しい雰囲気の中、二人は一瞬たりとも目を逸らすことはなかった。じぃっと切原の瞳を見やっていただが、小さなため息とともに視線を下へとずらした。
…………すると……

「やりー!勝ったーーー!サンの負けー!」
「……はっ!?」

突如発せられた切原の台詞に、は素っ頓狂な声を上げた。何が、勝ったで何が、負けたなのだろう。は下ろした視線を切原に移すと、切原はガッツポーズまでしている。は怪訝そうに彼を見つめ……もしや、と頭の隅で嫌なことを考えながら、切原に問うた。

「何が、勝ったなのよ」
「目、」

「逸らしたから、サンの負け!」と切原はを指差した。彼女の嫌な考えは、的中したようだ。

……お前は小学生か!

心の中で、切原への怒りを叫ぶ。そしてはその指に目を向けて、それからは眉の中央にしわを寄せた。ゆっくりと切原の手の甲に自分の指を近づけると、思いっきりそれを引っ張ってやる。すると、切原が「いで!」と声を上げた。

「最初っから勝負なんかしてない!」
「だからってつねることないデショ!おちゃめな冗談じゃないっスかー!サンって短気っスね!」

の手が離れると同時に、切原は鉄槌をくらった手を自分の口の前へとやって、ふうふうと息を吹きかける。それを横目で見やったは、はあ、とため息をつくと、床を見た。

……こいつ、やっぱバカ?

は額に手をやって、もう一度ため息をつく。切原はそれを見て、さすがにわかったのか「そんな呆れないでください!」と抗議する。「本当に冗談なんですから!」とかなんとかの誤解を解こうと一生懸命になっている切原。しばらく、そんな彼を見ていたが、だんだん可笑しくなってきては、くすりと笑顔を浮かべた。唐突に笑顔になる

サン?」

そんなの笑顔に切原はきょとんとする。何故笑顔なのかわかっていないようだった。頭の上に?と浮かべを見やる。それがのつぼに嵌ったらしく、ついに彼女は声を出して笑い始めた。

「あのー……」
「ごめん、なんか、可笑しくて」

くすくすと笑いを堪えながらは両手を合わせる。切原はそんなをただただ黙って見ていた。そうして、ぽつりと呟くように言葉を吐いた。

「……いい」

ぽつりと呟かれた言葉は、最初上手く聞き取れなかった。はは?と聞き返すように言葉を紡ぐ。そうすれば切原と視線がかち合って、次の瞬間にぱっと笑う切原の姿。

「やっぱりサン、笑ってるほうが可愛いっすよ!」

すると、今度はきちんと聞こえるように切原は声を大きくさせた。にかっとまるで太陽のような笑顔をに向ける。は呆然としてその笑顔を見ていたが、やがて切原の言葉を理解し、顔を紅潮させた。

「な、何言ってるのよ!バカ!!」

そうしてそっぽを向く。すると切原はブーイングのようにええーと声を上げた。

「何で笑うの止めちゃうんっスかー!誉めたのに!」
「だから、年上をからかうなって言ったでしょ!!」

そうは吼えるように叫んだ。の大きな声に驚いて、切原は目を見開く。切原の姿を見てはしまったと思い、もう一度そっぽを向くと口元に手を当てた。ほんの照れ隠しのつもりだったのに、どうやらそれは伝わらなかったようだ。目の前ではしゅんっと項垂れている少年。罪悪感がこみ上げてくる。

「……ごめんなさい。急に声を上げてしまって」
「いや、俺が悪いっスから……」

小さく謝れば、反対に謝り返す切原。スンマセン。と反省した声がの耳に届く。は、違うんだ、と弁解しようと切原のほうを向いた。振り向くと、そこにはまるで叱られた犬のような表情をした切原の姿。はもう一度謝ろうと口を開いた。

「あの……あか……」
「でも!」

しかし、その言葉は切原に遮られる。がばっと顔を上げ、真剣な眼差しでを見つめる切原に彼女は息を呑んだ。

「でも、俺……可愛いって言ったの、嘘やお世辞じゃないから……本気でそう思ったんで……だから……その」

言葉を濁して、切原は俯く。は彼の言いたいことがわかって、小さく微笑んだ。それは俯いている切原に気づかれることはなかったのだが。

「ウン」

小さく、呟くような声では頷く。その言葉な切原に届いて切原は恐る恐るを見た。

「……わかった。有難う」

切原が見やるとほんのりと笑みを浮かべるの姿が映った。切原はへへっと照れたようにはにかみ笑いを浮かべる。氷の溶けかかったコーヒーを持って、ストローに口付けた。



結局、父親についてのことは彼女の口から聞けなかったけれど、それでもいいと切原は思った。また、今度さんの話したいときに、話してくれればそれでいい。そんな風に考えながら、冷たいコーヒーをごくごくと飲んでいく。乾いたのどが生き返ったように潤いが広がっていった。





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