さぁあん……」

入ってくるなり、赤也は私の名前を呼んだ。
その表情を見ると、今にも死にそうな顔で私は、眉間の皺が1つ増えた気がした。





落ち着ける日





「どうしたの、切原君」
さん〜……」

腰を低く落として、ゾンビのような表情を浮かべる切原。まるで、今ならホラー映画に出てくる幽霊などに抜擢されるんじゃないか……なんて、そんなことを頭の隅で真剣に思いながら、とりあえず彼に座るよう促した。切原は、はい……と魂の抜け出そうな声で言葉を吐き捨てると、重々しい体を引きずるようにして歩く。そうして、どさっと特等席に座ると、力尽きたようにテーブルに顔を伏せた。

「とりあえず……アイスコーヒー?」

聞くと、切原はほんの少しだけ顔を上げて、こくんと力なく頷く。それを見て、心配になりながらも、は奥の部屋へと足を進め、コップを取り出す。それに氷を数個入れ、良く冷えたコーヒーを注いだ。いつもならカウンターのほうで自分を呼ぶ声がするのに、今日は全くと言っていいほど静かだ。なんだか調子が狂う。そんなことを思いながら小さなため息をつくと、切原がへばっているカウンターの前に、コーヒーを置いた。なみなみとコップに注がれたコーヒーが揺れる。それを横目で見やってから、は切原を視線を移すと、いつもの冷静な声で、言葉を紡いだ。

「どうしたのよ」

言うと、切原はの瞳を捉えた。その瞳をも見つめ返す。すると、眉を八の字にするとの名前を呼びながら、「もう駄目っす」と声を張り上げた。

「ちょっと……ど、どうしたのよ?またテニスで負けたの?」

一度、テニスで負けてショックを受けている切原を見たことがある。だからは、また、という言葉を使って、切原の顔を覗き込もうとした。すると、がばっと顔があがる。は驚いて、思わず一歩後退してしまった。

「違うっすよ!俺、そんなに負けませんって!」

そうして、切原はを睨んだ。その顔は、本気で怒っているように見えるのだが。…ぷっ。にとっては笑えるものだったらしい。それでも、笑っては失礼だと心の中だけで食い止めたが。必死に笑いを堪えているの横で、尚も言葉を続ける切原。

「そんな、俺弱そうに見えるんすか!?」
「すみません、お客様。言葉が過ぎてしまったようで……」

そう言って、は大変失礼を申しました、と頭を下げる。頭を下げながらも、笑いを堪えるのに必死で、は一人格闘していた。そして、の態度に切原の眉がぴくっと動く。

「……さん、ガキ扱いしないでくださいよ」
「ごめん、悪かったわ」

ぶすーっと。彼は完璧に拗ねてしまったようだった。は手のひらを合わせてごめんと何度も繰り返す。それでも切原の機嫌は直りそうになかった。は仕方ない、とため息をつく。

「ところで、何をそんなに落ち込んでたのよ」
「ああっ!!」

話を切り替えようと、あからさまに変える。切原はまんまとそれに嵌ったようだった。嫌なこと思い出させないでくださいよーと頭を乱暴に掻く。は、話が反れたことにほっと安心し、切原の言動を静かに見送っていた。

「実は……」
「うん?」

暫くして、切原は重々しいため息をつくと、自分の鞄から白い紙を取り出した。それを、覗き込むようにしてが見る。切原は笑わないでくださいよ、と釘を打つと、まいったと言わんばかりにそっぽを向いて後頭部に手をやる。それを一度横目で見て、はその白い紙の内容を確認するようにじっくりと見た。
―――英語
そう、白い紙には書いてあり、その文字の横に点数が書かれている。……まあ、この点数はプライバシー保護と言うことで、言わないでおこう。はその点数を見て、眉をひそめた。そうして小さな、低い声で「何これ」と呟く。彼女のその呆れたような、冷たいような言葉に、切原の体がびくっと小さく動いた。

「……勉強したの?」
「……う……」

切原はそっぽを向いたままだ。しかし、反応からしてしていないのだと言うことは一目瞭然だった。ははあ、と呆れたようなため息を漏らす。そのため息をついて、切原は弁解しようとのほうを向き、大きく口を開いた。

「違うっすよ!部活忙しかったんでつい!!」

部活のほうにだけ力が入っちゃったんですって、と言い訳をする。その言葉には目を細める。ただ黙って切原の言い分を聞いているが、はっきり言って、怖い。無言の圧力とはこのことを言うのだろう。その瞳からは、本当のことを言え。と言っているような……そんな目で切原をじっと見据える。

「す、すんません……やってないっす……」
「正直に、言えばいいのよ」

結局その瞳に敵わなかったのか、切原はしゅんと、うな垂れる。母親に怒られたような、そんな光景だ。はもう一度その白い紙を、今度は自分の手で持つと、間違っている箇所をチェックし始めた。

「……英語、どうも苦手で……」

ぽつりと、呟かれた言葉に、はちらりと目を向ける。切原はまたびくっと体を強張らせ、の言葉を待った。はそんな切原を見て、はあ、とため息をつくと、シャーペン貸して、と手を出す。

「え、あの……さん……?」
「聞こえなかったの?」
「いや、聞こえましたけど……」

何故にシャーペンを?と首を傾げる切原。は再度ため息をつくと首の辺りに手をやって、呟いた。

「……私が、教えてあげるわよ。英語」
「ま、マジっすか!?」
「中学二年くらいの英語ならわかるって。バカにしないで」

そう言うや否やは、早く、と切原を急かす。切原は、はいはい、と嬉しそうに頷いて、鞄の中から筆箱を取り出した。それをに手渡す。は受け取った筆箱から一本ペンを取り出すと、その白い紙を切原のほうに押しやって、切原が見やすいようにする。

「まず、ここの問い二の三だけど、ここは深く考えずにこれをこうして―――」
「ふんふん」





「で、最後の問題。これは、to+動詞の原形ってことは、不定詞と呼ばれるもので―――」

着実に、問題の解説を行っていくは、少し解説しては、わかったか?と切原に問う。……ただひたすら延々と喋り捲るというわけでは決してなく、きちんと切原の意見を聞く。それで、彼がわからないと言ったところを徹底的に面倒がらずに一から教えていった。ゆっくり、彼のペースに合わせているため、初めは理解できなくて匙を投げていた場所も、徐々に理解していけた。

「……!わかったっす!!」
「本当?」
「はい!有難うございました!」

問題を全て終えると、切原はそうか、と何度も頷いて、正しい答えを書いた。そして書き終わると大きく伸びをしてを見つめると礼を述べる。はいえいえ、と少し照れくさそうに微笑んだ。

さんの解説、すっげわかりやすかったっす!」
「それならいいんだけど」

問題は、それをいつまで持続させることが出来るかね、と意地悪く笑って見せた。すると、先ほどの嬉しそうな表情が、切原の顔から消える。

「そ、そんなこと言わないでくださいよ!」

せっかく人が幸せをかみ締めてたっていうのに。焦りながらに抗議する。は本当のことでしょ、と笑う。切原は図星だったため、何も言えずに言葉に詰まったらしい。弱々しい声を上げて、本日2杯目となるコーヒーを飲む。そうして、何か閃いた。

「そうっすよ!」
「……は?」
「俺、いいこと思いついちゃったっす!」

にかっと、いつものペースを取り戻したのか、今度は余裕の笑みを浮かべた。は首を傾げる。すると切原はがばっとの手を取って、ぎゅっと握った。

「また、やばくなったらさん教えてくださいよ!」
「はあ?」

うんうん、と一人納得する切原。こうなったら、もう何を言っても無駄なことを、は今までの経験上知っていた。やばい、と思いながら手を振り解こうとするが、思いのほか強く握られているため、離れない。

「よろしくお願いしまーっす!先生!」
「わかったから、わかったから先生って言うのはやめて!」

にへら、と笑う切原に、汗を浮かべながらは首を振った。



妙なことになってしまった。は自分の過ちを後悔した。
そして、これからは気をつけようと気を引き締めるのだった。





― Next





あとがき>>……不定詞の問題って、中二だったっけ……?ま、まぁ、間違っていても流してください!(汗)