あの日、子供のように泣きじゃくって。よしよし、なんて頭撫でられて。背中をポンポン優しく叩かれて。冷静になった私は次第に羞恥心がフツフツと湧き上がっていった。 落ち着ける距離 「また、来たの」 「普通いらっしゃいませー、じゃないっすか?」 カランとドアの開いた音を聞き、は振り向いた。すると、目に映ったのは、見慣れた男の子の顔。は呆れたようにその少年に対して口を開くと、少年は、少し口を尖らせながら反発した。はわざとらしく、いらっしゃいませ、と頭を下げると、どうせいつものだろうと少年の言葉も聞かずに奥へと行こうと踵を返した。 「あ、アイスコーヒーで!」 「わかってる」 すると、少年は慌てて注文をする。 はそのまま歩きながら片手を振った。 「き、緊張する……!」 は奥の部屋へと入ると、深いため息をついた。心臓がバクバクと音を立てて、顔が熱くなっているのがわかる。は右手を自身の胸に当て、一度深呼吸をした。―――不自然なところは無かっただろうか?取り乱したところを切原に見られたくなかったのだ。切原の顔を見ると、あの日のことがフレッシュバックして、恥ずかしくなった。……あの泣いた日のことを。だから言い方は悪いが、逃げてきたのだ。はもう一度ため息を落とすと、新しいコップにコーヒーを注ぐ。カランカランと作りたての氷がぶつかり合い、音を奏でる。何故だか、その音がの気持ちを少し落ち着かせてくれた。 「大丈夫、いつもどおりやれる」 は誰に言うわけでもなく呟くと、瞼を閉じた。それからゆっくりと目を開けて、アイスコーヒーを持って切原のいるカウンターへと一歩踏み出した。 「……はい」 「ありがとうございます!」 待ってました!と言わんばかりに、顔を綻ばせる切原。はそんな切原の表情を一瞥すると、アイスコーヒーをそっと切原の前に置く。切原は、置かれたアイスコーヒーをすぐさま手に持つと、ストローに口を付け、飲み始めた。ゴクゴクと喉が鳴る。は美味しそうにアイスコーヒーを飲んでいる切原を見て、ふと思った。 「あなたって、なんでアイスコーヒーなの?」 「んあ?」 の質問に、切原はゴクンとひときは大きな音を立てて、アイスコーヒーを飲み込む。そして、ストローを加えたまま素っ頓狂な声を上げた。はそんなこと気にも止めず、もう一度同じ言葉を繰り返す。すると切原はストローを口から離して、腕を組んだ。それからうぅん……、と唸る。 「……なんででしょう?」 「……聞いてるのは私なんだけど?」 は切原の返答を聞いて、はあ……、とうな垂れた。こういう性格だとはわかっていたつもりだったが、まさか今この質問でそうされるとは思っていなかった。切原にまともな返事を期待していたにとっては、見事それを打ち砕かれた気がして、眉根をひそめる。 「はあ……まあ良いわ。好みの問題だし」 「……」 すると、切原は黙り込んでしまった。は、そんな切原の様子を見て、悪いことを言っただろうか?と少し焦った。は小さく声を漏らすと、人差し指で頬を掻く。 「あ、あの……」 「ところでさん」 は怒った?と言葉を続けようとしたが、それよりも早く切原がの言葉を遮った。伏せていた顔を上げて、を見やる。何気に真剣な瞳にはびくっと顔を強張らせた。それと同時に心臓が高鳴る。はドキドキする気持ちを押さえて、切原の言葉を待った。 「なんで、俺のこと『あなた』って呼ぶんっすか?」 「は?」 呆気に、取られた。真剣な顔で何を言うかと思えば、そんなこと。呆気に取られるのも無理は無い。はぼけっとした、なんとも間抜けな顔で切原の顔を凝視する。すると切原は、真面目に聞いてるんですから!と声を上げる。それでもが黙っていると、切原がまた問うた。 なんで、といわれても……。 は至極困った。そんなこと言われても、癖みたいなものなのだ。前に一度、名前で呼んでくれと頼まれて、呼んだことがあったが、何か無いときでないと、言えなくなってしまった。……照れくさいのだ、彼の名前を呼ぶのが。それに、名前を呼ぼうとした瞬間は、何気に邪魔をされる。だから、あなた、と呼ぶのが定着してるんじゃないだろうか。 「……駄目なの?」 「いや……駄目って言うか……」 出来れば名前のほうが嬉しいですけどねぇ……と切原は口を尖らせる。 「別に駄目じゃないなら良いじゃない」 は素っ気無く言葉を並べると、はい、終わり。と言ったように、話題を切ろうとした。しかし、それでは切原は納得しないらしい。切原はうぅん……と暫く腕を組んだまま難しい顔をする。そのため、今の彼の顔は眉間に皺が寄っている。 「ほら、もう良いでしょ」 はもうやめよう、と促すと切原を見た。すると、切原は何か思いついたらしい。を見ると、はにかみ笑いを浮かべた。は切原のその笑顔に首を傾げる。 「なんか、『あなた』って言われると、新婚さんみたいっすね!」 「はっ!な、何馬鹿なこと言ってるのよ……!?」 そして、照れながら、切原は頬を掻いた。はというと、切原の「新婚」という言葉に反応して、声を荒げる。見る見るうちに顔は真っ赤になってしまった。最近、赤也に振り回されてる……。は、心の中で落胆した。そして、今目の前にいる切原を恨めしそうに見やると、テーブルに手をつく。 「だって、ドラマとか見てたら良く言いません?」 「それはドラマの話でしょ!」 「いやいや、結構新婚さんは言ってるみたいっすよ」 は呆れながら額に手をやって、切原の言葉を冷静に返す。ふざけているのだろうか?そう思ったが、そうでもないらしい。切原の瞳は真剣そのものだった。……尚更悪い。 「ま、じゃあそう考えると『あなた』って呼ばれるのも悪い気しないっすよね。どんどん言っちゃってください!さん」 「……黙りなさい。あんたの鼻にアイスコーヒー流し込むわよ!」 そのまま『あなた』というのはなんだか癪だった。これなら文句はないだろう。は安心したのだが…… 「あ、それも良く夫婦の間で使いますよね!『アンタ』とか『お前』とか!」 どうやら、相手のほうが一枚も二枚も上手らしい。はまたしても敗北感を味わった。この日から、は、決して切原のことを『あなた』とも『あんた』とも呼ばないと心に決めたとか、なんとか……。 「ちゃんと名前で呼んでくださいね、さん」 今日も年下少年に振り回されています。 ― Next |