「アンタ、うざい。とっとと消えろ」


決して広くはない室内が、あっと言う間に静粛になった。
私と母は、抗議することも忘れ、じっと赤也を見つめていた。

赤也の怒った顔が、私の瞳には映っていた。





落ち着ける時が壊れた日





どのくらい経っただろう?三人とも話もせず、動きもせず。気まずい雰囲気が、室内を包む。は切原に声を掛けようか迷ったが、とても声を掛けられる状況じゃなかった。は、口をきゅっと閉じ、床を眺める。の母親は、ずっと切原を見ていた。きっと、戸惑っているのだろう。さっきのほんわかとしたオーラは消え去って、今や強い怒りが自分に向けられているのだから。切原も切原で、じっとの母親を睨む。その瞳はしっかりとの母親を捉えて、逃がさない。そんな状態がしばらく続いた。



「彼氏に怒られちゃった」

一番始めにこの沈黙を破ったのは、の母親だった。ふふっと上品に笑うと、またを煽るような言葉を吐く。前のなら、それに対して冷静に対処できたのだろう。しかし、今のからは冷静のかけらもなく、母親の挑発に乗ってしまうのだ。

「だから彼氏なんかじゃ……」

ない。と続くはずだった言葉は、紡がれる事なく、途切れた。切原と目が合った瞬間、言葉が出なかった。苦しそうに目を細める切原が、一瞬見えたような気がして、は生唾を飲み込む。しかし切原は、すぐにからふいっと顔を背けた。そしてまたあの鋭い目つきで、の母親を睨むと言葉を発す。

「アンタに関係ねぇだろ」

酷く、冷たい一言だった。はびくりと体を震わせる。自分に向けられた言葉ではないのに、ぐさりと胸をついた。わかっていたつもりでも、本人に言われるときついな……。関係ないと言われて、こんなにも傷つくなんて、自分でも知らなかった。は自嘲的な笑みを自身に向けると、チラリと切原のほうを見た。切原の目線の先には、の母親。なんとも言い難い雰囲気が流れていた。そしてやがて、の母親は大きく息を吐くと、もう一度髪をうざったそうに掻きあげる。それからと切原を交互に見やると、来たときと同様の笑顔を浮かべた。

「じゃあ今日は帰るわね?」

あまりの男を苛めるのも悪いしね。と続けると、を見てにこりと笑う。一瞬の表情が強張った。それから、テーブルにお金を置く。そしてカラン……、とお馴染みの音を鳴らせてドアを開けた。

「じゃあまたね、

それから一度振り替えると笑顔のまま、店から出ていった。……再び、あの重い沈黙が流れる。はそれを紛らわすように、母親の飲み残していったコーヒーを下げようと、右手で掴んだ。全く口をつけていないコーヒーが、少しの振動でゆらゆら揺れる。はコーヒーに映る自分の表情を、覗き込むように見下ろした。なんとも言えない、表情だった。いつもの強気な態度や、可愛げのない仕草。どれも微塵も感じられない。はそんな自分に自嘲の笑みを浮かべて、コーヒーから視線をずらし、奥の部屋へと足を進めた。
カップを洗ってからカウンターに戻ると、切原は元の席に座って、アイスコーヒーを飲んでいた。は、ストローに流れるコーヒーをぼんやり眺める。

「なんすか?」

すると、声を掛けられた。いつの間にか凝視していたみたいだ。切原は持っていたコップを、ソーサーの上に乗せると、を見た。目が合っては、動揺を隠しながら口を開く。

「ごめん、なんかうちの事情に巻き込んで……」

自分の両手の指を絡ませながら、気まずそうに言った。切原はそれに対し、別に……、と素っ気なく返す。は切原を一瞥すると、慌てて言葉を付け足した。

「大体なんで私の彼氏……なんて有り得ないのにね。笑えない冗談」

自分で言って、空しさを感じながら、無理やりに笑顔を作る。落ち込んでる様子を見せてはいけない、と出来るだけ平常通りに装いたかったのだ。すると切原が急に、ガタンと、勢い良く立ち上がった。それをは、目で追う。切原は、低い声での言葉を繰り返した。

「有り得ない……?」

冷たい目、だった。綺麗なグリーンの瞳が、怒りに奮えている。は背筋に、冷水を流し込まれたような感覚に襲われた。息を殺すが、生唾を飲み込む音が、室内に響く。

「俺がさんの彼氏になるって、有り得ないことなんすか?」

冷たい声。でも、とても哀しそうで苦しそうな声に、は言葉を失った。どうすればいいのかわからなくて、は一度俯く。そして、再び顔を上げて、切原の顔を見ると、まるで、対抗するような冷たい言葉が、口をついた。

「当たり前じゃない」

……馬鹿げたプライドが、勝ったのだ。二人の関係に、ひびが入っていくのが、わかった。けれども、は止めることが出来なかった。口が、想いとは対照的に動いた。止まらない言葉。本当はこんなことが言いたいんじゃないのに素直になれない、弱い自分。だから、きっと罰があたったんだ。そのことに今のが気づくことはないけれど…。



「……そう、すか……」

切原は、力を振り絞って何とか言葉を紡いだようだった。今ならまだ、間に合うかもしれない。だけれど、のちっぽけな、役に立たないプライドは、そう優しくないのだ。言いたくも無い言葉が次々と溢れ出て来る。それを止めることは不可能で。あまりにもスムーズに出て来る言葉に、は凄いな……、とまるで他人事のように感じた。

「俺は、有り得ると思ってたんですけど……」

声が微かに震えてるように感じた。は一瞬言葉を飲み込む。あの目は駄目だ。まるで捨てられた子犬みたいな顔。は見まいと瞼をぎゅっと閉じる。

さんにとって……俺は絶対に、恋人になることは、ないんすか?」

そんなことない!って、大声で否定することが出来たならどれだけ幸せだろう。だけどその度に頭をよぎるのは、年下の単語。

「ないよ」

また、考えと裏腹な言葉がの口を突いて出た。は床の一点を見つめたまま、無表情だ。

「……っ」

とその瞬間、肩を掴まれては驚きに目を見開いた。それからあまりの力強さに、は顔を歪める。痛い、と声を漏らした。しかし、肩を掴む手は弱まらない。そうして、は切原を見上げた。

「……んで……っ」

怒ってるような、悲しんでるような複雑な表情だった。切原は唇をきつく噛む。ぎりり、と噛んだところから血が出た。それがまた痛々しくも眉をひそめる。切原は言いかけた言葉を飲み込んだまま、きつく強くの肩を掴んで離さない。は、振り払うことができなかった。そのまま、強く肩を掴まれたまま、言葉を続ける。

「……私、年下は嫌いなの」

落とすように言うと、また少し肩に痛みが走る。しかし、それは一瞬の出来事で、すぐに肩の痛みが和らいだ。切原の手が離れたのだ。残ったのは少しの痛みと、切原の手のぬくもり。はだらりと垂れた切原の腕を見る。

「……だから、有り得ないのよ」

呟いて、小さく微笑む。の反応に、切原は、眉をひそめ、唇をきつく噛んだ。またぎりっと唇が切れて、口の中に鉄の味が流れる。それを見られないように、顔を背けた。





重い思い沈黙が流れた。チャリン。と、小さな音がしたのは、それから暫く経ってからだった。は音のしたほうを、ゆっくりと見やる。切原が、カウンターにお金を置いたのだ。

「俺、帰ります」

そう言って、ドアの方に歩き出す。はカウンターに置かれたお金を見て、はっとする。そうして、そのお金を乱暴に取ると、切原を呼び止めた。

「待って、おつり」
「……いりません」
「え……」

切原の言葉に、困惑しながら、お金を持った手に力がこもる。切原は、ゆっくりとのほうを振り向くと、悲しそうに笑った。そうして取っ手に手をかける。そして、迷惑かけたお詫びってことで、と呟いた。ずきっとの胸が痛む。は右手を胸の方にやって、切原の名前を呼ぼうと口を開いた。しかし、が声を出す前に、切原が言葉を紡ぐ。

「じゃ、さよなら。さん」

そうして、ドアはゆっくりと閉められた。は止めることもできず、開いた口を閉じ、唇を噛む。涙が、こぼれた。ぽろぽろと、頬を伝う。それは止まることがなくて、はそんな自分に自嘲の笑みを漏らす。



「ふっ……馬鹿、みたい」

一人になった部屋に、の声が、小さく響いた。涙で滲む瞳で、切原から貰ったお金を見る。ポタリとそこに涙がこぼれて、お金を濡らした。それは本当に一瞬で、それはあまりにも簡単で、真実は嘘に飲み込まれ。氷のように、鏡のように脆くも、崩れ落ちた。





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