「忘れてた…?」 確かに彼は、震える声でそう言った。 素直になれない、 素直になりたい は切原の言葉を肯定するように、小さく…しかしはっきりと頷いて見せた。切原はそれを見て強く拳を握る。ぎゅ…っと小さく音が鳴った。はそれに気付かない。頷いた後、俯きがちにテーブルを拭いていたからだ。もう、何度となく拭いていて、反対に色が落ちてしまうくらいまできっちりと擦る。そのまま数秒の沈黙が訪れた。ごしごしとテーブルを拭く音と時計の針の音しか聞こえない。それをは妙に不安に思いながらも言葉を紡ぐことが出来なかった。ただひたすらに、テーブルだけを拭く。だんだん手が疲れて来たにも関わらず、まるで何か呪いでもかけられたかのように手は休むことがない。 「……間違い、てこと…すか?」 また、切原が言葉を紡ぐ。先ほどよりも、心なしか声が震えていた。そして心なしか声のボリュームも小さく、低い。……蚊の鳴くような声を振り絞って出したんだろう。は切原の顔を見上げる。そうすれば、今にも泣きそうな切原の顔。整った眉は中央に寄り、眉尻が少しだけ下がっていた。口はへの字に曲げられ、大きめな瞳には不安の色が宿る。ずきり、と胸が痛むのを感じながら、は一度テーブルに視線を向け、皺くちゃになった布巾を綺麗な四つ折りにした。それから気付かれないように小さく息を着く。自分を落ち着かせると、はまた切原の方に顔を向けた。 「そうよ」 自分は今、どんな顔をしているのか。考えるまでもない。は至極冷たい目で冷たい声で突き放すような言葉を吐いた。切原の表情が更に歪む。はぼんやりと……まるでその光景が他人事のように見つめていた。 「……それで、聞きたいことって、そんな下らないこと?」 本当は、下らなくなんかないというのに。は頭の中で自分の言動に否定して、心の中で自嘲的に笑う。切原の顔を見るのが怖かった。しかし俯いてしまえば弱気なことがバレてしまう。はそう考え付けると、息を殺し、大きく唾を飲み込んだ。 「……下らなく、なんか…ないっす」 ポツリ、と切原が落とすように吐いた。その言葉にはえ…、と小さな声を漏らす。そうしたら切原はを真っ直ぐに見つめ、また同じ言葉を繰り返した。今度は少し強めの、大きめな声。 「俺にとっては、すっげー必要なことだったんすよ」 ふ、と笑う。どこか哀しげで寂しそうな表情。まるで捨てられた子犬のように。親に叱られて反省している子どもみたいに。ぎゅっと胸が締め付けられる感覚に陥る。呼吸困難にでもなりそうだ。は眉間に数本の皺を作ると、大きな瞳を細長くした。 「…何、言ってるのよ」 バクバクと煩く鳴り響く心臓を押し潰すように拳を握る。内心ビクビクしながらは、平然と言ってのけた。震える声を覆い隠すように。少しでも気を緩めたらすぐに声が出せなくなりそうだった。 「本当の事…っす、から」 の瞳が揺らめく。その一瞬を切原は見逃さなかった。そこで、思う。 本当にさんは本音を喋ってるのか? 目の前の彼女はどうも本気で言っているようには見えない。時折俯いたり、何かそわそわして落ち着かない。いつもの冷静さが欠けているのだ。 「馬鹿馬鹿しい……早く、帰ってくれないかしら」 また、だ。またあの瞳。一見冷たく怒りに満ちているような目つき。だけれども、その中にほんの少し混じる戸惑いの色。そのことに、切原は気付いていた。気付いていたからこそ、ここで引く訳にはいかないと考えた。足は床に着いたまま、離れない。一歩も動こうとしない切原には心焦った。 「早く帰りなさい」 「嫌っす」 そんな会話を何度となく繰り返す。お互いに同じ言葉の言い合い。一歩も譲ろうとしない為、埒が明かなかった。はそんな切原に苛立ちを感じ、だんだんときついの口調になる。しかし、それでも切原には無意味だった。それには気付き、わざとらしく切原に聞こえるような大きさの溜め息を漏らした。 「ガキの戯言に付き合う程、私は暇じゃないわ」 言ってしまってから、は切原を見た。そうすれば、明らかにショックを受けたような顔。言って後悔。それが自分の悪いところだと解かっているのに、言ってしまう。これはきっともう癖なのだろう。は切原を見ながらそんなことを思った。それでも次に出てくる言葉は「ごめんね」と言う可愛らしい言葉なんかではなくて 「解かったら、さっさと帰りなさい」 口から漏れるのは可愛げの無い、一言。素直になれない自分をこんなに呪ったことはない。どこぞの少女漫画のように上手くはいかないものなのだ。冷たく言い放ったの言葉を、ただ黙って切原は聞いていた。呆然と立ち尽くして。の顔を見ず、床を見つめる。いつもの自信は何処へ行ってしまったのか、とかいつもの積極性は何処へ行ってしまったのか、今の彼はそんなの微塵にも感じさせないほど、弱く感じられた。 「ほら、暗いから」 そう言いながらは外を見つめた。秋だからか、夏の頃とは違って日が落ちるのが早い。まだ夕方になったばかりだと言うのに、随分と外は真っ暗だった。星がキラ、と光、月も大きくその存在をアピールし出している。はそれをぼんやりと見つめていた。切原の顔を直に見ていられなかったと言う思いがあったからだろう。悲しそうに、しゅん、と捨てられた子犬のようなその姿を見ていると、本音が出そうになるのだ。 すると、小さな物音がした。きっと切原が帰るための物音だろう。はさほど気にすることなく外を見つめていた。――――――――――だから、反応が遅れてしまった。 「―――――っ!?」 気が付けば、は切原の胸の中にいた。 ― Next |