さん」

そう彼女の名前を呼ぶと、さんはゆっくりと瞳を開いた。





言いたくなかった、

サヨナラなんて






さん…」

切原がもう一度名前を呼んだ。
呼ばれたはただ呆然と切原を見つめる。

「……っ」

我に返ったのは、それから暫くしてからのこと。の顔がだんだんと歪んでいく。朱色に染まった頬がその表情を一層引き立てる。切原はやってしまったと言う少し罪悪感を胸に抱き、ほどではないにしろ、微かに表情を崩した。

、さん」

そうしてもう一度彼女の名前を呼んで、切原は一歩踏み出した。小さな一歩だったけれども、には大きな影響を与えた。ビクリと身体が強張るのが解かる。は戸惑いながら俯いた。今自分の視界に映るのは切原の靴。先ほどよりも少し近くなったそれを見て、今近くに切原がいるんだと今更ながら認識した。

さん、」

3度目の切原の声に、が俯いた顔を上げる。躊躇いがちに切原を見た。目の前の切原は真剣な表情をしていた。でも、その中にも不安が募っているような…。はぎゅっと口を固くきつく結った。まるでその行為は溢れ出しそうな本音を覆い隠すかのように。

「……さん、俺……」

ポソポソと呟かれる言葉が妙に生々しい。さっきの行為が現実だと思い知らされる。は嬉しさと戸惑いを胸のうちに秘めながら、ただ冷淡な表情を浮かべていた。

「…俺…悪いことした、なんて思ってないっす、から」

紡がれた言葉には切原を見た。真剣な眼差しには眉を潜める。手をぎゅうっと力強く握り締めれば肩が微かに震えた。は切原からの視線が痛く感じた。

さん…」

また切原はの名前を呼んだ。一歩だけ近づく。切原のその動きには、一歩後ろへと下がった。それに切原が気づき、少しだけ辛そうな表情を見せる。しかしそれだけでは終わらない。また恐る恐る一歩踏み出す。まるでその足取りは先ほどのの行動がただの偶然だと思いたい一心のような気がした。間違いであるように確かめるように。けれどもその小さな期待は次のの行動によって確信になるのだ。

さん」

恐る恐るの方へと手を伸ばす。そうすればはぎゅっと瞳を瞑った。まるで拒絶するような態度。その態度に切原は伸ばした手を止めた。それから一度自分の手を一瞥し、静かに自分の方へと戻す。だらり、とまるで無気力さを現すようにその腕は切原の脇の横に垂れた。解かっていたことだけに、切原は辛さを隠し切れなかった。そうさせたのは紛れもなく自分のはずだ。今までの関係を、壊したのはいつでも自分だった。嫌われているなら、とことん嫌われてやろう…。そう思ってした行為。

つまりは自業自得なのだ。

「……さん、俺」

何度もそこまで言いかけて、その先が紡げない。歯がゆさを感じずに入られないけれど、目の前の彼女を見ると、どうしてもそこで口が閉じてしまうのだ。情けないと切原自身思った。だが思うけれど、やっぱり簡単には声に出して出ない。だらりと垂れた自分の右手を力強く握る。伸びかかった爪が自分の掌に食い込んだ。

唇を噛み締める。

「……最低……」

至極小さい声が切原の耳に届いた。瞬間切原の口からぎり、と音がして唇が切れる。言われないなんて自信があったわけじゃなかった。反対に覚悟していた。やっぱり今までどおりにはならない。此処で自分との関係が終わってしまうのだと、予測はしていた。それでも、小さな希望があっただけ。本当に馬鹿らしい、確証も無いことを信じていた。

「……出ていきなさい。そして……もう、決して此処へは来ないで」

ポツリポツリとか細い声で。しかし、はっきりと言い放つ冷たい言葉。切原はの顔を真正面から見る勇気が無かった。ただきつく、強く唇を噛み締める。ジワリ、と口の中に鉄の味がするのを感じた。口が切れて血が出たのだとわかる。ぼんやりとそんなことを考えている自分が妙に阿呆らしかった。余裕があるわけじゃないくせに。

「……早く」

中でも急かすような言葉が一番はっきりと聞こえた。凛々とした態度。切原はゆっくりと顔を上げた。……見えるのは彼女の強い瞳。ああ、こんなにも彼女は綺麗だったんだと。こんなにも強い眼差しを持っていたんだと、今更ながらに思った。心の中で自嘲気味に笑う。

「……わかりました、」

だから、もう何も自分に言うことはない。此処で引こう。そう感じ、切原はから離れるように一歩一歩引きずるように歩いた。目指すべきは扉。その扉を開けて一歩外に出れば、もう二人の接点はゼロ。もう、二度と会うことはない。淋しいと、正直に感じるものの、もう切原にはどうすることも出来なかった。ドアの前で一度立ち止まり、重々しい扉を開けた。カランと小さく音を立てる。明るい光が差し込んだ。

「……赤也」

出ようと一歩踏み出そうとした瞬間、が切原の名前を呼んだ。振り返りたい衝動にかられながらも、切原は決して振り返ろうとは思わなかった。きっと引き止めるべき言葉が紡がれることはないと、感じていたからだろう。何よりも、自分のこの情けない顔を見られたくなかったのかもしれない。年下である自分の唯一のプライド。

「……さよなら……」

切原はの最後の言葉を聞いて、パタリとドアを閉めた。
シーンとした部屋には静寂だけが包まれる。

「……ふ」

そこで、ただ一つ聞こえたのは、嗚咽。
小さなかみ殺すような声が店に響いた。





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