傷つけたいわけじゃなかった。 だけど、どうしても自分のプライドが邪魔して素直になれないの。 歳の差なんて関係ない。そう言うけれど、私にとってはその歳の差は大きな壁になっているのだから。 だから好きだけど、いや、好きだからこそ……サヨナラ。 サヨナラなんかに したくなかった 細い道を、歩く。白い空間。私の最も嫌いな場所。だけれども、此処は私の最も大切な人がいる場所。少し薄暗い廊下を静かに歩いた。時折人とすれ違う。松葉杖で頑張って歩いている人だったり、車椅子を漕いでいる人だったり、様々だ。私はエレベーターに乗った。乗っているのは私のみ。ガシャとエレベーターの扉が閉まった。それから行くべき階のボタンを押す。ガコンと音を立ててエレベーターが上に上がっていく感覚がした。扉の上にある表示板がチカチカと光って今の階を知らす。私はそれをぼんやりと眺めながら自分の行く階を待った。そして、チーンと言う音とともにエレベーターのドアがゆっくりと開いた。着いたようだった。私はゆっくりとエレベーター内から出て目的地を目指した。カツカツとサンダルの音が響く。真っ直ぐ続く廊下をひたすら歩いた。時折肩からズレ落ちる鞄を掛け直しながら、歩いた。 そして、真っ直ぐ続いていた廊下の唯一の曲がり角を曲がる。それから1,2,3と部屋を通り過ぎて、ようやく目的の部屋の前までやってきた。ふう、と溜息をついて。期待を交じらせ、深い深呼吸をする。それから閉じていた瞳を開いて意を決してドアに手をかけた。ガラ、と言う音とともに部屋に一歩踏み出る。やっぱり。瞬時に私は思うと溜息をつきたくなった。何も聞こえてこない静かな部屋。真っ白く四角い隔離されたような部屋。吐き気がする。 「……また、来たよ」 真っ白いシーツと布団に挟まれて、静かに眠る弟。ベッド横にある、誰も座っていない椅子まで歩いて私はそこに腰掛けた。キシ…と小さな音が椅子から聞こえる。私は気にすることもなく、弟の顔を覗き込んだ。……日に日に、様態は良くなっているのだと、医師からは訊いている。けれども、こうやって見ているだけでは、素人の私からはどう良くなっているのか良くわからない。確かに傷はもう殆ど感知しているし、一端瀕死までなって、血液が不足して青白くなっていた顔色も。今では赤みがかって事故当初と比べれば、誰がどう見ても顔色は良くなっているとは思う。人間本来の暖かさも手を繋ぐことで伝わってくる。けれど…… 「じゃあ、いつ目覚めるの?」 その問いは未だ不明なのだ。これは本人にしかわからない。医師にさえもはっきりとした日時はわからないのだ。ここからはもう本人の正念場。頑張りどころなのだ。私や医師が手助けできることは、もう十分にやった。もう出来ることはこれ以上ないのだ。それがとても歯がゆかった。情けなくて、どうすることも出来ない自分が、役立たずすぎて、泣けてくる。ジワリと涙腺が緩むのを感じた。次第に目の前がぼやける。多分今瞬きをしたら涙がこぼれてしまうんだろう。 「…ふ…」 最近、本当に泣くことが多くなった。弱くなってしまった証拠だろうか。強くありたいと願っていたのに、反対にだんだん弱くなっていくなんて。自嘲的に笑う。笑った瞬間に涙がこぼれた。頬をツーと滑る。私はそれを拭うこともせずに、弟の手を握り締めていた。 「起きて……」 一端流れ出た涙と言うものは一気には引かないらしく、次々に流れてきた。頬を伝って、顎まで通り、そこから落ちる。ポタ、と真っ白いシーツの下に染みを作った。一点だけが濃くなる。それに続いて、どんどんと涙が落ちていきシーツを濡らした。 「起きてよ…」 情けない声が、部屋中に響く。虚しい。ポタポタと止め処なく流れる涙は次第に勢いを増していった。そして、繋いでいた私の手と弟の手の間を滑るように落ちる。生ぬるさを感じながらも私は手を離さなかった。 「……え」 視界は涙の所為でぼやけていて当てにならない。第五感である視覚が遮られた中、一つの感覚器官が発達した。それは、触覚。微かではあるけれど、私が握っている弟の手が動いたような気がしたのだ。あくまで"気がした"だけなのだけど。吃驚して、今まで流れていた涙がピタリと止まる。そうすれば、視界がだんだんとクリアに映し出された。それからはもう、スローモーション。また少し弟の手が動いた。それと同時に、今まで微動だにしなかった眉が中央に寄せられ眉間に皺を作る。 「ん……」 小さな、漏らすような声。窓から注がれる太陽の日を眩しそうに細める瞳。 だんだんと細められていたその瞳は開かれていった。 「……ッ」 恐る恐る弟の名前を呼んだ。すると何処か焦点の合っていない虚ろだった瞳が私を捉える。色素の薄い瞳の色。久しぶりに見た弟の目。また涙が出そうになった。そうすれば弟は苦笑交じりで笑って見せた。懐かしさがよみがえる。 「何泣きそうになってんだよ……泣き虫」 「……ッ馬鹿!」 誰の所為でこんな思いをしたと思っているんだ。気付いたときにはポロポロと涙がまた溢れ出していた。それを呆れたように見つめる弟。はは、と弱々しそうに笑って、ゆっくりと私のほうに手を伸ばした。暖かい手が私の頬に触れて涙を拭う。その仕種が妙に恥ずかしかった。ぎゅっとシーツにうつ伏せて、それからベロベロになるほどに泣いた。羞恥心も何もかも捨てて、子供のように泣き叫んで。 「早く元気になりなさいよ」 「…もう元気だけどね」 数日が経った。いつものように見舞いに行けばもう憎まれ口も一人前に叩けるくらいに回復した弟。いい方向に進んでいるんだと目に見えてわかる。それが嬉しかった。何より、赤也のことで落ち込んでいた私にとっては、立ち直るいいチャンスになった。 「さん」 気を抜けば思い出してしまう、赤也のこと。それもすぐに忘れられるだろう。そう思った。 「ところでさ、姉貴」 「何?」 見舞い品である林檎を剥いていた。そこで丁度林檎を半分剥き終わったとき、急に弟が口を開いた。私は林檎から目を逸らすことをせずにそのまま訊き返す。 「姉貴、元気なくない?」 私はその言葉に冷静さを失い、持っていた果物ナイフを床に落としてしまった。動揺を隠せない。どうして、わかってしまったのだろう。姉弟ゆえにわかる変化、なのだろうか。今更平然を装っても仕方が無いこととは思いつつも、私は普段と同様な顔つきに戻ると、落ちたナイフを拾って、恐る恐る弟を見つめた。 ― Next |