あと、10センチ
不本意にも、泣いてしまった。あれから、なんとなく気まずくなって、赤也と話せていない。
赤也の前で泣くのは、初めてだったわけじゃない。なのに、何故か、話すことが出来なくなってしまった。勿論、全然ってわけじゃないんだけど。でも、前みたいに気軽に話しかけたり出来なくなってしまった。
最初、赤也はそうでもなかったんだけれど、私の態度を汲み取ったのか、話す回数が減ってきて、今では事務的なことがあるときしか話しかけてこなくなった。…酷いときには挨拶もなかったりする。それが、ちょっと…哀しい。でも、そんな状況を作ってしまったのは紛れもない自分。
「…はあ…」
今日は日直だったため、帰りが遅くなってしまった。しかも、こんな日に限って先生が無駄なおしゃべりなんてするものだから余計に、だ。
私は重いため息をつくと、これまた重い足取りで上靴を脱いで外靴に履き変えた。
トントン、と靴をきちんと履く。がらん、と静まり返った生徒玄関。そこにいるのは勿論私だけだ。
いつもは活気に溢れているのに、こうも時間が立つと不気味さが漂う。夕暮れ時、とはこのことを言うんだろう。オレンジに染まった太陽が、窓ガラス越しに玄関を照らす。
私はまた小さくため息をついて、玄関を出た。そして、真っ直ぐ校門を出ようとした…。
「……」
のだが、私の足は無意識に別方向へと進んでいた。この先にあるのは、テニスコートだ。…つまり、赤也のいるところ。
私は緊張からか、手に汗をかいていた。脈が凄い早く打っているのがわかる。
何度か深呼吸をして心を落ち着かせようとしたが、無意味に終わった。足取りは、やっぱり重いまま。
それでも歩みをやめなかったのは。それでも踵を返さなかったのは。…やっぱり赤也に会いたいから…なんだろう。
相当赤也に惚れ込んでいる。考えると恥ずかしい反面悲しくなり、なんとも複雑な気持ちになった。
「…あ、いた」
重い足取りだと思っていたが、思いのほか早くコートにはついてしまった。フェンスを囲むように女子生徒が沢山いる。…誰かのファンだろうか?
私はそんなことを心の片隅で思いながら、少し離れたところで見物していた。そして、フェンス内(つまりはコート)に、一人の女の子を発見する。…多分、彼女が赤也の言っていたマネージャーであり、想い人なんだろう。
…可愛い子…
確かに、赤也の言っていたことが良く解かる。仕事はきちんとやっているのだけど、どこか放っておけないような雰囲気を持ってる。
あどけない笑顔が去年まで小学生だったんだと実感させる。
小柄で華奢な身体からはスラリと伸びた手足。瞳はくっきり二重。少しピンク色に染まった頬に、ふっくらとした唇。…本当に可愛い子だ。赤也が惚れるのも無理はない。
「…勝ち目、ない、か」
言ってて哀しくなった。また、視界が揺らぐ。でも、泣くわけにはいかないから、私は慌てて上を向いた。真っ白い雲と、青々とした空が映る。ほんのちょっとだけ、気が楽になった。
よし。心の中で呟いて、涙が引いていくのを感じながらゆっくりと顔を前に戻した。赤也とその子が会話をしているのが目に映る。…片想いをしている私から見てもお似合いだ。
赤也は年上のほうが合うとか、年上キラーだとか、色々言われてるけど、私はそうは思わない。
ああいう、守ってあげたくなるような子とも似合う。…だって、赤也は可愛いんじゃなく、格好良いんだから。…私がそういうときっとただ切原が好きだから贔屓目で見てるんでしょ、って言われそうだけど。
うん、でも、本当にそう思うんだよ。
また、少し泣きたい気分になった。それでも、涙はさっきみたいに急激に押し寄せてこない。それが救いだ。
楽しそうに会話している二人を黙って見つめる。なんだか、ストーカーのようだ。友達のはずなのに、なんだか滑稽に思える。
…そろそろ帰ろう
名残惜しかったけれど、これ以上あの二人を見ていたくないと言う思いが交差する。
そして私は、逃げのほうをとったのだ。ゆったりと踵を返し、向かう先は校門だ。少しズレ始めた鞄をきちんと肩に掛けなおす。
うん、大丈夫。辛いけど、きっと大丈夫。今までだって上手くやってきた。…そりゃあ彼女との関係を目の当たりにしたことはなかったけれど。でも、今は殆ど会話もない状態。うん、だから大丈夫。きっと、また少ししたら笑えるようになる。
瞳を閉じれば、目に浮かぶのはさっきの光景。それでも、涙は出てこなかったから。
「…ふう」
小さく息を吐いて、ゆっくりと瞼を開けた。まだ、ざわめいているフェンスの周り。
女の子達の声援が飛び交う中、私は一つ笑顔を落として、一歩踏み出した。
「!」
しかし、踏み出したのはほんの一歩のみ。それ以上は進めなくなってしまった。
理由は、私の名前を呼ぶ声が聴こえたから。聞き間違えるわけがない。こんなにも大好きな人の声。
名前を呼ばれるたびに、嬉しくなるほどの、感情。…赤也だ。
「あか、や?」
声が震えた。震えながらゆっくりと振り返る。
嘘じゃないか、夢じゃないか。不安と期待を持って。そうすれば、フェンス越しに見える赤也の顔。でも、いつもの笑顔は其処には無くて、あるのは真一文字に唇を結った真顔。男らしい表情に、私の心が揺らぐ。
未だに震えている手を自身の胸元にやった。そこでぎゅっと拳を作る。どうしたの?言えば、赤也は一瞬私から視線をはずして、斜め横に俯く。それでも、すぐに深緑の瞳が私に向いた。どきっと胸が高鳴る。
「…もう、帰んのかよ」
ぽつり、と呟いた赤也の声。
それはあまりにも小さくて周りの女の子の声に掻き消されそうになりながらも、私の耳に届いた。素っ気無く、ただ一言。
「…う、ん」
私はそれに返事を返しながら軽く肯きも加えた。赤也の目線が下に行く。土を見ているのだろうか。シューズで軽く蹴りを入れる。
すると赤也の足の周りにほんのちょっぴり土ぼこりが舞った。私もそれを黙ってみる。
…とてもぎこちない。
前はこんなんじゃなかったのに。どうして。今は。赤也と私の前に壁があるように見えた。フェンスが、まるで二人の間をこれ以上縮ませないようにしている、大きな厚い壁のようだ。
近づけは、触れられる距離にいるはずなのに、彼が遠くに見える。決して手の届かない人のように。それが、今の私と彼の心の距離なんだろう。言い知れぬ辛さがこみ上げてきて、私はまた逃げ出したくなった。後ろ向きに一歩一歩下がっていく。赤也の目を見る自信が今はない。そこまで、強くなれていないからなんだろう。
「…じゃあ、私、帰るね」
何とか微笑むことが出来た。微笑む、って程綺麗な笑顔じゃないのは百も承知だけれど。
私は小さく手を振って、また踵を返そうとした。
「待てよ!!!」
すると、赤也の切羽詰った声。制止する発言に思わず立ち止まった。瞬きも忘れて赤也を見つめる。
そうすれば、少し眉間に皺を寄せ、何か思い悩んでいる様子の、赤也。ほんのちょっとだけ、顔が紅いような気がした。でも、それはきっと寒さの所為。
私の頬もきっと紅い。それも絶対寒さの所為だ。手が悴む程に冷え切った風が私達の間を滑るように吹き抜ける。中でも一際強い風が吹いて、私の髪の毛がぶわっと視界をふさいだ。
「何で、避けんだよ…」
独り言に近い赤也の呟きが、私の耳にノイズ交じりで届いた。それは何処か苦しそうな。苦虫を噛んだような。後味が悪いって後悔しているような。今にも泣きそうに、それでも懸命に耐えてるような子どものような、表情。
ずき、っと胸が締め付けられる。…こんな顔、させたいんじゃない。いつでも、笑っていて欲しいだけ。幸せそうな赤也の姿が見たいだけなのに。
「赤、也」
そっと名前を呼んで、一歩、また一歩とゆっくり彼に近づく。数歩歩いて、フェンス越しの赤也が至近距離で見えた。
そうすれば赤也はキッと鋭い視線を私に投げかける。思わずビクっと身体が跳ねる。
怒られる。怒られちゃう。不安が過ぎって、思わず目を閉じた。でも、飛んできた言葉は、怒りの声でも、罵るような声でもなく、…掠れた、弱々しい、声。
「…今までみたいに、応援しろよ…」
呟かれた言葉に、涙しそうになりながら、私は小さく肯いた。
私は、まだ彼の隣に居ても良いのだろうか。横を歩いていても許されるんだろうか。
…今の私と赤也の距離は10センチ。……あと、10センチの距離。
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