別に、理由なんてない






仁王先輩との件があってから、赤也と私のポジションはまた少し変化した。
部活に見学に行くと、いつもちょっかいをかけてくる仁王先輩をいつも追い払おうとする赤也。そして当惑する私。それが最近の変わらない日常と化してきていた。

「だーかーら、仁王先輩はヤバイんだって」

今は、自習中。席が隣同士の私たちは、机を寄せ合って、配られたプリントを解いていた。
いや、正確には解いているのは私だけで、赤也は私の解答を丸写ししているだけ。

「何処がヤバイの?面白い先輩じゃない。てか、全部写さないで考えなよ」
「全部。だって英語なんかわかんねーよ」

手を動かしながら止まない会話。そう、今は英語の自習中なのだ。
何枚もある課題プリント。始めは赤也も頑張ろうとしていたらしいが、一番初めの問題を見て放棄したらしい。自分には無理だ、と。これが得意科目ならまた違っていただろうけれど、生憎英語は彼の不得意教科。いつも赤点。
そんなやる気を微塵も見せない赤也を見るとくるくると器用にペン回しをしていた。

「先輩は、女好きで有名だから。老若男女どれでも来いな人なんだぜ?」
「…老若男女だと、男も含まれるんだけど…」

こいつ、英語の勉強どころか日本語も勉強したほうが良いんじゃないか。本気で心配してしまった。呆れたようにいえば、まあ、言葉のアヤだ!なんてけらけら笑う。
言葉の文…なんだかこれも使い方が違ってるような気がするが…まあ、そんなことはもうどうでも良い。
何を言ってもきっと赤也には伝わないだろう。長年の友達付き合い歴のお陰で、赤也の考えはお見通しだ。

「とにかく、女好きで手が早いんだから気をつけろよ!美人じゃなくても良いって言う先輩なんだから」
「美人じゃなくてもは余計よっ」

びん、と固めた消しカスを赤也にぶつけてやった。近い距離だったため、それは赤也のおでこに見事ヒット。
いてて、と言いながら赤也がおでこを摩る。対して痛くもないくせにオーバーリアクションだ。
でも、本気で気をつけろよ。なんて心配の言葉を続けられて、ちょっぴり嬉しく感じた。…赤也にとっては友達だから心配、なんだろうけれど。それでも嬉しかった。
でも私から言わせてもらえば、仁王先輩は私のことを好きなのではなく、むしろ、私を使って赤也をからかっているだけの気がしてならない。
だって、いつも私に話しかけて赤也が来ると、とても嬉しそうな顔をするんだから。

…てことは仁王先輩…

そこまで考えて、身震いする。いやいや、あるわけがない。第一赤也が今言ったではないか、仁王先輩は女好きだと。
私はぶんぶんと頭を思いっきり振って、またプリントへと視線を落とした。授業が終わるまで、あと20分。
無駄話は此処までにして、私は本気でプリントを埋めるように努めた。横で赤也が何かを言っていたが今は構っている時間がなくて、スルーさせてもらった。





放課後になった。私はいつもと同じように少し遅れてテニスコートへ向かう。もう赤也はアップして、試合が始まるみたいだった。
私は定位置に着くと、少し離れたところで観戦する。周りの女の子達に負けないくらい、心の中で声援を送って。試合が開始されて、女の子の黄色い声が飛び交う。少し耳につく、甲高い声に思わず眉間に皺が寄る。思わず耳を塞ぎたくなった瞬間、声をかけられた。振り返れば、仁王先輩の姿。
あ、と声を漏らせばにっこりと笑う仁王先輩。私は小さくお辞儀をした。すると仁王先輩が私の隣で赤也の試合を見入る。
なんでわざわざフェンス外に出てきたんだろう。不思議に思いながらも深くは追求しなかった。
仁王先輩には仁王先輩の考えがあるんだろう。私は気にせずに赤也の試合に視線を戻した。



「…この前」

暫くして、試合も中盤に差し掛かったころ、黙って見ていた仁王先輩が小さく声を漏らした。私は不意に先輩の横顔を見上げる。先輩の顔は変わらずずっと赤也の試合を見つめている。
それでも、また動く口に私は耳を傾けていた。先輩の言いたかったことは、この前の質問についてだ。
この前の質問、とは「赤也のことが好きか」と言うこと。私はそのとき友達だから、と答えた。でも、どうやら先輩はその答えに納得してなかったようだ。

「好きなんじゃろ」

肯定系で問われ、言葉を失くす。

違う。

その二文字の否定の言葉が出てこない。嫌に汗が滲んできて、唇を噛んだ。思わず俯いてしまえば、顔を覗き込んでくる先輩。にや、っと悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見つめる瞳。
意地悪くて嫌だ。私は無言で仁王先輩の顔を睨みつけると、先輩はクックと笑いながら顔を離した。
それから、ぽん、と頭を撫でる。私は先輩の顔をただ黙ってじっと見つめた。そして、先輩の口から紡がれるのは「それで?」と言う急かすような台詞。私はまたまだ黙って先輩を見ていた。
多分。きっと。絶対。先輩は、引かない。本当のことを言うまで聞き続けるだろう。たとえ嘘を言ったって、きっとこの人には通用しない。私は観念したように項垂れて、それから小さく肯いた。

「やっぱりなあ」

先輩には、バレていたのだ。しかも随分と前から。私が、自分の気持ちに気づく前から。自分でも気づかないうちに、そんなにも態度に出ていたってことなのだろうか。不安になる。
自覚してからは隠していたつもりだったけれども、反対に不自然で、先輩は面白おかしく見ていたと言う。

「アイツのことをねえ…」

笑いを堪えたような声が、私の耳を通る。低い声は何の躊躇もなく、私の脳へと浸透していった。
そう改めて言われると、照れる。恥ずかしさで穴の中に入りたい気分だ。きっと今の私の顔は間違いなく真っ赤に染まっていることだろう。
ああ、と両手で顔を隠して見せた。すると、先輩がふ、っと声を出して笑う。でも小馬鹿にしたような笑いじゃない。ちらりと指の間から覗けばそこには優しげな、笑顔。

「初々しいのう…此処まで好かれとると羨ましいぜよ」

笑みは消えない。ポツリと吐かれた言葉が、やけに耳に残る。
先輩の名前を呼ぼうとすると、それを制止するように先輩の指先が伸びてきて私の頬に触れた。冬の風に晒された私の顔は冷たかったけれども、先輩の手はとても暖かい。

「にお…せん、ぱ」

だんだんと近づいてくる仁王先輩の顔。どきどきして、私は固まることしか出来ずにいた。
もう、途切れた言葉は声を失ったように出ることはなくて。ただ、近づいてくる仁王先輩の顔を目で追うだけだ。それはスローモーションのように。ゆっくりと、ゆっくりと近づいてきて。

「ちょ、何やってんスか!!」

仁王先輩の顔が私の頬…正確には耳の辺りに来たときに、かけられた声にびくっと反応して私はその方向を見つめた。そして、また別の意味で、固まる。…目の前には怒ってるらしい赤也の姿。
部活のユニフォームに身を包んだ姿に見惚れてしまうのは、惚れた弱みなのか。途切れ途切れに赤也の名前を呼ぶと、赤也は更に私たちへと歩みを進め。

「へっ」

拒否する間もなく、私は赤也のほうに引き寄せられた。さっき見たユニフォームが間近で見える。決して触れることはなかったけれども、仄かに赤也の香りがした。それだけでどきどきと心拍数が急上昇し出す。
鳴り止まないそれに私はぎゅっと胸のほうで掌を握って落ち着こうとする。殆ど無意味に終わるけれども。そして、私の肩を掴んでいた赤也の手に力が込められた。その余りの力強さに顔が歪む。見上げれば、仁王先輩を睨んでいる赤也の姿。

「俺、言いましたよね。いくら先輩でもには手ェ出さないでくださいって」

そんな約束をされていたとは露ほども知らない。 初めて聞いた新事実に目を瞬かせる。赤也は依然、先輩を睨むままだ。鋭い眼光が仁王先輩のほうを向く。
もし、自分に向けられてたら耐えられなくて泣いてしまいそうだ。けれども、向けられている張本人の仁王先輩は相変わらず余裕綽々そうな顔つき。
さっきの優しげな眼差しは何処かへと吹き飛んでいったようで、今目の前にいるのは、詐欺師と呼ばれるに相応しい貫禄のある笑顔。

「そうだったかのう」

おどけたように言えば、赤也がぎりっと唇を噛んだ。それから、至極冷静に誤魔化さないでくださいって。こんなときにでも敬語を使うあたり、上下関係には従順のようだ。そんなどうでも良い事を私の脳内は考えていた。
赤也の手が未だ置かれている私の肩が異様に熱い。熱を帯びたように、火傷しそうなくらい。すると、くいっと反対の腕が引っ張られて、気を抜いていた私は赤也とは反対方向へと倒れようとする。そして、見事先輩の胸に倒れこむ形で赤也と離れた。先輩の名前を呼べばまたあの意地の悪い笑顔。

「スキンシップじゃよ」

そう言って、頭を撫でてくる先輩に、私は黙るしかない。と言うか、この状況で私の発言権など、もう用意されていないのだ。ただ、成すがまま。されるがままの自分。黙って頭を撫でられ続けている自分。
そして、先輩が私に耳打ちをした。その言葉にポカンとしてしまう。けれどもその次の瞬間、あっという間に私の頭からはぬくもりが消えた。仁王先輩の手の感触も、だ。そして、近くにあった先輩の顔も。

に触んなっ!」

そう言いながら、赤也が先輩の手をはたいたのだ。思わず瞬きするのを忘れて赤也を凝視してしまった。でも、上のほうでいてて、と言う仁王先輩の声に我に返って振り向く。
すると、真っ赤になった手の甲。痛々しいそれに眉が潜まる。大丈夫ですか?言えば、にっと笑う先輩。それとは反対に始終赤也は不機嫌だ。
そんな赤也に、仁王先輩は顔を向け、言い放つ。

「お前に何の権利があってそんなこと言う?は、お前にとって何なんよ?触っちゃいけんって言う理由は?」

その、仁王先輩の言葉に、胸が跳ねた。私と赤也の関係。それはずっと私が赤也に聞きたかったことだ。
赤也にとって私はどんな存在なのか、聞きたくても聞けなかった質問を今、先輩は問うたのだ。…赤也の本音が、聞けるとき。
勿論、「女友達」そういわれるってことは重々に理解している。赤也にとって私は女友達であって、それ以上でもそれ以下でもない。それくらいわかってはいたけれども、それでも。ちょっとの期待で胸が弾む。
黙り込んでしまった赤也に目は釘付けだ。時が止まったように、私は動けなくなる。でも、次の言葉は、私の聞きたくなかった言葉。

「別に、理由なんてない」

ただ冷たく、落とされた言葉に、頭の中が真っ白になる。


『きっと、赤也もアンタのこと好いとるよ』


耳打ちされた仁王先輩の言葉が、空しく私の頭に木霊した。





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