私は、大変なことを仕出かしてしまったのかもしれない。
それは大好きな笑顔
「じ、ジローせんぱー・・・い?た、タオル、ですよー」
あの、温和なジロー先輩を、怒らせてしまったのだ。先輩は一度も私の顔を見ることなく、ふくれっつらになると私の元から去っていってしまった。これならまだ、文句言ってもらえたほうが良いよ。
「完全シカト、やなぁ」
忍足先輩の声を耳で受け止めながら、項垂れる。 ああもう、ほんと私ってマネージャー失格なんだろうと思う。時間を元に戻してほしいとこれほど強く思ったこと、今までにあっただろうか。そう考えていや無かったと結論が結べた私は、はあ、とため息をついてジロー先輩に渡せなかったタオルをぎゅっと抱きしめた。
時は、2日前に遡る。5月5日。あの日、わかっていたら良かったんだろう。何だか凄くご機嫌だったジロー先輩。そのときに、一体何があるんですか?とか周りの人にでもジロー先輩のご機嫌のわけを聞いていたら良かったんだろうと思う。でも私は何か良い事あったのかな?と安易に考えて何も聞かなかったのだ。
「あ、ちゃんちゃん!」
「・・・はい?」
思い返してみれば・・・あの日はいつにも増してジロー先輩は私に話しかけてきてくれた気がする。そして、大好きな趣味の昼寝も絶対にしようとしなかったのに。明らかに何かあったことはわかっていたのに。私はそれをわかろうとしなかったのだ。
部活を終えたメンバー達に「お疲れ様でした!」といつものように挨拶をして、そして、珍しくジロー先輩に一緒に帰ろうと誘われて。・・・何度も何度もご機嫌のわけについてのキーワードをジロー先輩は言っていたのにも関わらず私は見逃していたのだ。
「ねーね、今日って何の日か知ってる〜?」
「・・・ふふ、ジロー先輩ってばー5月5日って言えば子どもの日に決まってるじゃないですか?もしかしてそれほど物知らずだと思われちゃってます?」
・・・・・・・・・今なら、言える。物知らず過ぎだ。あの時何も言わずジロー先輩に笑いかけていた自分を後ろから殴ってやりたくなった。
5月5日と言えば、こどもの日でもゴールデンウイーク中の休暇でもない(いやあるけど)・・・ジロー先輩の誕生日じゃないか。
ほんと、馬鹿だ。
***
「・・・ジロー先輩・・・」
ポツリと呟いた先輩の名前。すると、それを隣で聞いていた跡部先輩が呆れたような声を上げた。「ガキか」それは私に対しての言葉だったのか、それともふて腐れているジロー先輩に対しての言葉だったのか。隣で仁王立ちしている跡部先輩を見上げれば、跡部先輩と目が合った。
「気になるなら行ってこい。・・・練習に支障きたされたら溜まったもんじゃないんでな、」
どうやら私に対しての言葉だったようだ。いわれた台詞の後、おら、と言う声と共に押される背中。トタタ、と数歩進んだ後振り返って跡部先輩を見れば、「部長命令だ」と低い声で言われてしまい、私は一度唇を噛み締めて、はい!と大声を出して答えた。ぺこっと頭を下げた後、駆け出す。何処にいるかなんてわからないけど、でも・・・―――なんとなく解る気がした。
***
「・・・ジロー、先輩?」
案の定、先輩は屋上にある給水タンクに体を預けるようにして、座り込んでいた。恐る恐る名前を呼ぶ。―――ジロー先輩からの反応は無かった。ああ、怒ってる?滅多に見ないジロー先輩の不機嫌顔に、胸がツクンと痛むのが解った。私のなすべきことは決まっている。謝罪、だ。「ごめんなさい、すみませんでした」と頭を下げる。言い訳はしない。知らなかった自分が悪いのだ。・・・去年の岳人先輩、宍戸先輩、跡部先輩、忍足先輩、日吉くん、鳳くんの誕生日を順に祝ってきておいて、ジロー先輩の誕生日をごっそり忘れてしまっていたわけなのだから。―――よりにも寄って、自分の好きな人の誕生日を、忘れていたわけなのだ。
下げた頭を上げてジロー先輩を見やる。でもその顔はやっぱり私に向くことは無くて。・・・涙が出そうになった。もう笑いかけてくれないの。ちゃんって私の名前を呼んでくれることは無いの?そう思ったら胸が締め付けられるような、ノドの奥が熱くなるような感じがして、すごく、すっごく苦しかった。
「ごめ、なさい」
搾り出すように言った再度の謝罪は、静かに空気に溶けては消えた。好きな人に無視されることがこうも辛いなんて、知らなかった。いつもくれるジロー先輩の笑顔がどれだけ自分に元気をくれるかなんて気づきもしなかった。ただ、ただ辛い。自分によってきてくれないジロー先輩の態度が。
ジロー先輩がどれだけ5月5日を楽しみにしてたのか、そんなの今考えてみればわかることだったのに。私は目を向けようともしなかったのだ。そう思ったら、ぽた、と涙が零れた。存在を無とされることがこんなにも悲しいことだったなんて。
「・・・どうして、ちゃんが泣くの」
すると、やっとジロー先輩が口を開いてくれた。2日ぶりに聞いた、ジロー先輩の声。その声に促進されるように、涙がポロポロと流れ出た。頬に伝う涙をぐしぐしと拭いながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返せば、ジロー先輩が「俺のほうが泣きたいC」と私を見た。本当に、その通りだ。ぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に拭って、もう何度目かの謝罪を紡げば、ジロー先輩が私の名前を呼んだ。
「俺、悲しかったんだよ?」
「はい」
「皆はさー、ちゃんに祝ってもらってたのに、俺だけなしでさ」
「・・・はい」
「でも、自分から言うのってなんか催促してるみたいでかっちょわるいC・・・ちゃんに気づいてもらえるまで頑張ってアピールしてたのにさー」
ぽつぽつと聞こえてきた言葉は実に耳が痛かった。だんだん自分の背が猫背になるのがわかる。正座したままぎゅっと掌を強く握って、先輩の声に耳を傾ける。すると、また「ちゃん」と名前を呼ばれて、顔を上げた。
そうすれば、凄く近くにいるジロー先輩と目が合って。・・・・・・動けなくなる。
「じろ、せん、ぱい」
「だから、意地悪しちった。・・・ごめんねえ?」
台詞と共に、振ってきたのは優しい掌。なでなで、と私の頭を優しく撫でるそれと、優しげな笑顔にまた涙が出そうだ。今言葉を紡いだら多分私はまた泣いてしまうんだろう。そう予想できて、私はただふるふると頭を横に振って否定することしか出来なかった。そうすれば、ジロー先輩が私の目の下を優しく指でなぞった。「赤くなっちゃったね、ごめんね」言いながら先輩は指の腹で優しく何度もそこを撫でる。不謹慎にも胸がきゅうんとなるのがわかって。顔が熱を帯びた。すると、ジロー先輩の指がそっと私の顔から離れて。
「ね、誕生日プレゼント、貰ってもE?」
「え」
問われた質問に素っ頓狂な声が上がった。それから後、あ、ハイ!と元気良く答えたものの、今手元にないことに気づく。「鞄の中なんです!」言いながら「今持ってきますね」と立ち上がろうとした。
でもジロー先輩が素早く私の手を握ってしまうから、吃驚して立ち上がれないまま終わる。先輩を呼べば、ジロー先輩はにっこと笑って違う違うと首を振って見せた。何が違うんだろうと首を傾げながら問いかければジロー先輩の顔が再度近づいて。
「今欲しいもの」
「え、今?でも、何ももってな」
いんです。―――その言葉は、ジロー先輩の唇によって遮られてしまった。文字通り、唇によってだ。触れたそれは温かい。それは一瞬の、本当に掠める程度のものだったけれど、私の言葉を失うのには、十分すぎるほどの威力を持っていて―――。
「へへ、・・・奪っちゃったー」
へら、と笑う先輩は、本当の天使のような笑みで。でも今はその笑顔に釣られて笑う余裕なんて私には無くて。
・・・触れられた唇を自分の指でなぞるように宛がって―――我に、返る。
い、い、いいい今!
「じ、ジロせんぱ!今、い、いいま!」
「んー?」
「き、ききき・・・っ」
「あははー、さ。そろそろ戻ろっか〜・・・あとべがおかんむりになったら困るC」
言いながらジロー先輩は子どものような笑顔を浮かべて、私を頭をぽんと撫でた。
・・・5月5日って、本当にジロー先輩のような人にぴったりな誕生日だと思った。
・・・純粋な笑顔が、眩しかった。
―Fin
2007/05/11