教室に戻ると、私の席に誰か座っていた。 その人物は直ぐに解ってしまって、行きづらさを感じた。 Remains snow *暗々裏* 教室に帰り、いつものように次の授業の用意をしよう…そう思っていたは教室内のその光景を目にし、固まった。先ほどまで軽やか、とはいえなかったもののそこそこ足取りも普通だっただったが、目に映る人物を前に、動けなくなってしまったのだ。今や鉛をつるしてるかのように重くなってしまった足は、そこから一歩も踏み出すことが出来ない。そんな親友を目に、は少し眉根を寄せるが、こうしていてもこの先のことは回避できない。そう踏んで、の背をポン、と叩いて見せた。そうされて、がを見るのは必然で…。目が合った瞬間、ウインクをするに小さく笑みを返した。それから、ぎゅっと掌を強く握って、ゴクン、と息を呑む。意を決したようにその場へと足を進めた。 「あ、?」 ある程度近づいたことで、どうやらが声をかけるよりも先に、相手のほうが気づいたようだった。そこでやっぱり自分の間違いではなかったのだと、心を痛める。そんなの心情を知らない彼はふわっと微笑んでいる。会いたくなかったな…心の中で思うものの、その笑顔にまだ恋をしている自分に気づく。きゅ、と唇を噛み締めることでその苦悩を打ち消すようにするが、殆ど無意味に終わった。はこの気持ちを悟られないようにゆっくりと彼に…不二に近づくと、不二は席から立ち上がりに椅子を譲った。元から、の席だったのだ。 は少し戸惑いを見せるものの、不二の顔をちらりと見やれば穏やかな微笑み。少しの息苦しさを感じながらは無言で椅子に座った。机の中をがさごそと探り、次の教科の用意を始めたのは、この息苦しさを少しでも緩和させたかったからだろう。隣に座っている手塚をちら、と横目で盗み見れば不二から借りたのであろう、朝に言っていた小説を読んでいた。此方に気づく気配を見せない手塚を、暫く見やって、は視線を外す。それから漏れるのは小さなため息。きっと本人は無自覚についてしまったのだろう。近くにいた不二はそれに気づいたようで微かに眉を寄せた。けれども、すぐにそれを覆い隠すと教室の前に飾られている時計を見て、言葉を紡いだ。 「じゃあ、帰ろうかな。本鈴なっちゃうし。また今度とゆっくり話したいな」 一言、そう呟くように言の葉を乗せたあと、すぐさまに踵を返し不二は教室を後にした。突然自分の名前が出たことには心底驚いて、頬を朱に染める。それから去っていった不二の背中をぼんやりと見つめた。こういう事を言うから、諦められないのだ。心の中で不二に対しての悪態を付きながらは泣きたくなる衝動を抑えるために俯いてぎゅっと瞳を瞑る。そうすることでじんわりと涙腺にきていた波は収まったようだ。けれども、胸の鼓動はいまだ速いまま。はそれを打ち消すように首を左右に振り、何を思ったのか手塚の方に視線を移した。すると、今度はの視線に気づいたらしい。「ん?」と短く言葉を呟いて、読んでいた本に栞を挟むとパタンと閉じる。前にも有った光景だ…そんなことを思い出す。それと同時に感じるのは申し訳なさ。毎回彼のしていることの邪魔しているような気がして、胸がぎゅっと締め付けられた。 「何だ?」 「あ、いや…!別に、なんでも、ない、の」 それからもう一度問いかけられた質問にはしどろもどろになりながら返事を返す。そうすれば手塚はその言葉を信じたようで、「そうか?」と淡白に答えるとまた読書の続きに入った。 ―――嘘だった。聞きたい事はたくさんあった。手塚君は私の事を好きなんじゃないのか?手塚君は私と不二君が話していても気にならないのか?手塚君は不二君が私に会いに来る事を如何思ってるのか? だが、はその言葉を飲み込んだ。…そんな事、言えるはずもないのだ。はもう一度「なんでもない」と一言呟いて下を向いた。その様子を不審に思ったのか、手塚の眉間に皺が寄り、口を開く。けれども、手塚の口から何か紡がれることはなかった。その後すぐ、タイミング良く、なのか、本鈴が鳴り、次の授業の教師が遅れながら入ってきたからだ。手塚は開いた口をまた真一文字に戻し、前を向き直った。それから学級委員の言葉と共に授業が始まるのだ。 起立、礼と淡々とした口調で言い放つ学級委員に倣い、生徒が続く。教師も一礼すると、早々と持ってきた教科書をぱらぱらと開いた。「七十二ページ」と簡潔に言い渡され、席に座った生徒達が面倒臭げにパラリと教科書を開いた。教師はそれを一瞥するとすぐに生徒から背を向け綺麗に消された黒板に文字を綴る。はそれを目で追いながらぼんやりと思考を漂わせていた。 此れから、私は如何すれば良いのだろう…? 取り留めの無い悩みが頭に浮かぶが、答えなど出ない。そう簡単に答えが出るのならここまで考えていないだろう。そのくらい深刻な問題だと思った。出るのはため息。 「やっぱり不二君?」 不意にの言っていた言葉を思い出した。ふと、ちくりと痛む胸。…そうなのだ、本来ならば不二のはずだ。にもそれはわかっていた。何より不二は一年の頃からずっと好きで片想いをした初恋の相手。テニスをしている彼に恋をして、毎日淡い恋心を抱きながら遠くの方で見つめる日々を送っていた。そして、自分も女子テニス部に入っていたため、それなりに話せるようになったのは彼に恋をして二ヵ月後。それと同様に二年になり、三年生が引退したとき、は女子テニス部の部長に推薦された。更に不二と近づくチャンスが増え、それと同時に男子テニス部になった手塚とも少しではあるが話をするようになった。 主にテニス部関連のことでしかなかったが。誰にでも穏やかな笑顔で器用に話す不二とは違い、仏頂面で不器用な手塚にとっつきにくいイメージがあったものの、部長同士での話し合いを重ねる中、テニスについての情熱や熱い想いがあることも知った。そして、今年三年になり、手塚と同じクラスになって、もっと話すようになったのも事実。 …私、今… そこではっと気づいた。不二のことを考えていたつもりが、いつの間にか手塚になっていたことに。何故、手塚のことを考えたのだろう。不可解な思いに眉根を寄せる。けれども、それは不二と手塚どっちが好きなのだろうかと考え比べていたからだと言う結論に達した。 またの口から、小さくため息が漏れた。どっちが好きなのか、強いて言うなら、どちらも好きだ。どちらにも捨てがたい魅力がある。誰にでも優しく接することの出来る不二。誤解されやすいが人のことを考えている手塚。どちらも器用か、不器用かの違いだけで優しい人だ。でも…それを恋として考えるのなら、話はまた違ってくるのだろう。ずっと好きだったのは不二だ。今まで、不二に似合うような女の子になりたい。そう思うことで毎日自分を引き締めてきた。釣り合うようになりたいと思い、前以上にテニスの練習もしたし、外見だけでなく、勉強や内面を色々気にして頑張ってきた。手塚はと言うと、同じ部長同士であることもあり、時々助けてくれたり、支えあったり時には相談しあったりで凄く良い人だと思っている。けれども、それはきっと恋では無いのだろう。 じゃあ私はやっぱり、不二君が好きなんだろうか? そう確認するように心の中で自問するが、何故か手塚のことも頭から離れない。何故なのか、応えは何一つ出なくて。どんどん考えていると、訳が判らなくなってきて。出ない答えに苛々が募りは乱暴に頭を掻いた。結論が出ないことがこんなに腹立たしいなんて思ったことがなかった。何故、不二だと即答できないのか。何故、手塚のことがこんなにも気になるのか。それはきっと、初めて告白され、どうすれば良いかわからないからだ。不二と付き合うとすぐに思えないのは自分を想ってくれる手塚に悪い気がするからだ。そう思い込もうとする。…その時、一瞬だけ胸がチクっと痛んだ。その痛みは本当に微かなものだったのだけれど。その胸の痛みの意味が、わからない。わからない、けれど…。 ふと、は必死にノートを書き写している手塚に視線を向けた。真剣に先生の言葉に耳を向けながら書いている。そしては、ふう、と小さく息を吐いて、自分のノートに目を落とした。数文字だけ綴られている文章に目をやり、黒板のほうを見れば半分以上埋まった黒板が目に映る。げんなりとしてまたため息が出そうになった。けれどもは今度はそれを無理やり止めて、シャープペンをぎゅっと握り、授業に挑んだのだった。の瞳には、何かを決意したような、そんな鋭さが感じられた。 「、ちょっと良い?」 「うん、いいけど?」 時は、休憩時間になった。は素早く教科書を片付け終わると、神妙な面持ちでの席へと向かった。ちょっといい?と声をかければ、は少し不思議そうな顔を向けたが、すぐに了承してくれた。はそんな親友にぎこちない笑顔でありがとうと礼を言うと、二人そろって廊下に出た。教室から少し離れた踊り場までくると、誰もいないことを確認して、すっと立ち止まる。それから壁に寄りかかると、それを見ていたも同じように隣によりかかった。そして先ほど授業中に考えていた事をはゆっくりと、淡々と話し始めた。 答えが出たわけじゃない。けれど、ずっとこのままでいても何も解決しない。悶々と、釈然としない想いは未だ胸の奥にあるけれど、きっと一歩踏み出せば真実がわかるかもしれない。はただ一点を見つめて、口にすれば、が小さくうん、と言ったのがわかった。此処からが本題だ。すう、と大きく息を吸い込んで、隣のに向き直る。それは何処か決心したような瞳で、相談を乗ったときとは全然違う、強い眼差しだった。は一度生唾を飲み込んでじっとを見やる。彼女の出方を待っている仕草はにもきちんと伝わったようで、また心の中で感謝する。また小さく息を吸い込むと、意を決したように言葉を紡いだ。 「私、不二君と付き合うよ」 決定的な一言に、自分で進めておきながらは驚きを隠せなかった。「マジ!?」と吃驚したときに半ば無意識に出た言葉は思いのほか踊り場に響いた。けれどそんなの気にしていられない。ぱちぱちと目を瞬かせれば、苦笑したの顔がある。それからはこく、と確かに縦に首を振ったのだ。 「だって、1年のときからの片思いだし…」 「がそう思うなら、そうすれば良いとおもう、けど…でもその、てづ」 続きが言いづらそうなにはふっと力なく笑って、彼女の肩に顔を埋めた。まるでその続きを言わせないといったふうなそれに、の口が閉じる。戸惑ったように彼女を見下ろせば、の体がかすかに動いているのがわかった。何かに耐えているような。一見泣いているようにも見えるそれには自分が出来ることは何かと考えて、とりあえずぽんぽん、とあやすようにの背中をさすってやった。 「私は、不二くんが好き、だから」 ぽつりと呟かれた言葉は、に向けたものなのか。はたまた自分に言い聞かせていったものなのか…?にもにもわからなかった。ただ、感じるのは親友の優しさ。気遣い。それに甘えるようには瞳を閉じた。…予鈴がなるまで、ずっと。は何も言うことなくただ黙って背中を摩っていた。 放課後になった。騒がしかった空間も人がいなくなれば寂しさを纏うもので、しんと静まり返った教室の中、は一人いた。が一緒にいようか?と言ってくれたが、はその優しさを丁重に断ると、自分の席に腰掛けていた。本来なら部活が始まっている時間であるが、今日の女テニは休みだった。そんな彼女が残っている理由は、ただ一つ。―――手塚を待っているのだ。教室で待つよりも部活場所であるテニスコートに行ったほうが良いのは重々承知だった。けれど、あそこは今は行きにくい。だから、時を待って部室前に行こうと決めたのだ。まだ、部活が終わるまで随分時間がある。 特にすることがないだったが、何もしないまま待っていれば、不安と緊張で押しつぶされそうになることがわかっていたので、今日出たリーダーの課題をやってしまおうと鞄の中から教科書を取り出した。少々分厚めのそれをぱらりと開く。今日の復習らしいそれを一問一問書いていけば、案外早く終わりそうだと思った。 どのくらい経ったのだろうか。リーダーに集中していたは、カタンと言う小さな物音で顔を上げた。そこで音のしたほうを見つめて、…息が止まりそうになった。目の先にいたのは手塚だった。テニスジャージに身を包んでいることからまだ部活が終わってない時間なのだと言うことが容易に想像できたが、時間を確認する余裕などにはもうなかった。ただ、の中に疑問だけが過ぎる。どうして?と。別に手塚と約束していたわけじゃない。それなのに彼は来た。まだ暗くなっていない外からすればきっと今は休憩中なのだろうと思う。―――…忘れ物だろうか、手塚くんが?思うけれど言葉に出来なくて。ただ、ただ手塚を見つめた。そうすれば手塚は何も言わず教室に入ると、の前までやってきて、ピタと止まった。 「やはり、まだ…残っていたのか」 「え、…あ」 言葉にならない声を上げて、手塚を見やる。彼は今、やはりと言った。と言うことは私を探していたのだろうか?心の中で疑問を消化させようと試みるけれど、上手く頭が働かない。ただ、見下ろされていることだけが唯一今のにはわかって、やりかけのリーダーをぱたりと閉じた。キレ悪く手塚の名前を呼ぶ。やはり手塚の表情は変わらず固い。その表情のままで、「……が…」と名前を呼ばれて、ぎゅっと締め付けられるような感覚がした。 「…待っている、ような気がして」 「…っ」 言われた瞬間、目が合っては泣きそうになった。……―――きっと、手塚は気づいているに違いない。そう、感じたのだ。そう思うと辛くて、申し訳なくて、酷いことをしているという罪悪感がひしひしとに押し寄せてくる。思えば自業自得なのだろうが。今瞬きをしてしまったら涙が出そうになったが、今泣くのはそれこそ反則だと思い、頑張って堪える。口元が小さく痙攣するのがわかったけれど、それでもぐっと耐えた。 「……わかっている」 「……ふっ…ご、ごめん、なさい…」 小さく呟いた謝罪は、この静まり返った部屋で十分聞こえただろう。深々と頭を下げるを、ただ手塚は見下ろす。その表情は冷たいものではなく、どこか優しげだったが、今のには見えるはずもない。カタカタと小さく手が震えだすのがわかって、右手でぎゅっと左手を握って震えを無理やりに止めた。 「許して、なんて…言わない。最悪な女だって罵ってくれて、構わない、から」 なんて、勝手な物言いだろう。は心の中で毒づきながら、更に頭を下げた。こつ、と机に額がつくのがわかったけれど、は気にしなかった。本当なら土下座しても足りないくらいなのだから。ぽた、と涙が零れたのがわかった。その雫はノートに小さな丸いしみをつくる。ああもう駄目だってば。と思うけれど一度零れてしまった涙はそう簡単に止まってはくれなくて、をイライラさせた。最後の最後まで最低な自分だ、と自分自身を罵るが。一向に手塚からの罵声はやってこなかった。ただ、言われた言葉は、もういい、の一言。気づかれないように涙を拭って顔を上げれば、わかりにくいが笑っている手塚の姿がの目に映った。 それを見て、折角止めた涙がまた溢れてくるのがわかった。…結局、本人にもばれてしまったと罪悪感が募るけれどもう止められない。軽くひきつけを起こしてしまうほどの大粒の涙が我先我先と頬を伝って流れてゆく。 「…が精一杯考えた答えならば、大丈夫だ。…不二は、何だかんだ言って良い奴だからな」 どうして、どうして、どうして。そんなに優しいのか。どうして怒ってくれないのか。どうして利用したことを咎めないのか。 一気に色んな思いが湧き上がってきたけれど結局言葉になって出てきたものは一つもなく、ただの口からは何度も何度も在り来たりな謝罪が漏れるだけだった。 「ただ…」 ぽつり、と手塚が呟く。は涙でぐしゃぐしゃになった顔を手塚に向けた。こんな不細工な顔、きっと冷静になって見てみれば恥ずかしいものにしかならないとは思ったが、今は拭っている余裕もない。涙でぼやけた視界で、同じようにぼやけた手塚の姿を発見して、鼻声で手塚の名前を呼ぶと、手塚が一言、小さく謝った。なんで手塚が謝る必要があるのだろうか、と疑問に思ったと同時に、引っ張られる腕。黒いそれに遮られる視界。ぎゅっと、包まれるよりも強い束縛感。…抱きしめられたのだと気づいた。けれど、どうすることも出来なくて、ただ流れる涙が手塚の制服を濡らしていく。こんなこと、前にもあったなとぼんやりと思う。たった昨日のことのはずなのに、何だか遠い過去のような錯覚を起こしてしまうのは、今のその抱きしめ方があのときの優しいだけのそれとは違って、きつく、痛いぐらいの抱擁だったからだろう。 時間にしてみればたった数秒足らずだっただろう。一瞬今までで一番強く抱きしめられたかと思うと、ばっと離れる身体。さっきまであった暖かなぬくもりはすうっと消え去り、涙で滲んでいたはずの視界はクリアになっていた。手塚の制服が全て吸い取ってしまったのだろう。 「…てづ」 「……気をつけて、帰れよ」 が手塚を呼ぶよりも先に、手塚は言った。同時に見える背中。ああ、行ってしまう。そう思うけれどフってしまった自分には追いかける術はない。もう一度だけ謝ると、手塚がもう謝るな、と呟いて、教室を出て行ってしまった。残されたに残るのは、しみを作ったノートと、手塚の最後のぬくもりと、頬に残る涙の跡。どうしようもなく哀しくなって、止まった涙がの頬に一筋の雫を落とした。 ― Next あとがき>>補足:【暗々裏】・・・人に知られないうちに。 使い方はあっているかわからないけど、まあこの場合ヒロインの決断した後のもやもやの正体とか、他の人に知られないうちに。みたいな感じでとってくれればいいなぁ。ていうか、かなり暗いね、書いてて沈んじゃうんですけど…。 2006/09/20 |