Adagio
何事も平和が一番。
そんなあたしの嫌いな事は、喧嘩。賭け事。嘘。
やっぱり生活してるからには笑ってたいし、あたしの周りはいつでも笑顔に溢れていて欲しい。
そう思うのは、あたしの我が侭なんだろうか…?
★★★
平和が大好きなにとって、この日、事件が起きた。
「ちょっとっ」
それはが登校して直ぐの事だった。ガラっと教室のドアを開けた瞬間、の姿を発見した友人がひときわ大きな声での名前を呼び上げて、同時にその両足を動かした後、軽快な足取りでの前へと辿り着いた彼女は勢い良くの身体を抱きしめる。こういう過度のスキンシップに慣れていないはあせあせしながら、けれどもそれを拒絶する事は一切せず、自分に抱きつく友人の背中を擦った。その手はぎこちない動作で彼女の背中を上下したが、その一連の動作にらしさがあると思う。
「どうしたの…?」
たどたどしい心配してます的な台詞が彼女との空間に浮かんで消えた。友人は彼女の肩口に埋めた自身の顔を上げると、「フラれた!」―――ぴしゃんと言い放った。それがまるで「昨日の晩御飯は嫌いなものばっかりで最悪だった!」くらいのあまりにも軽いノリのようなものだったので、は思わずぽかんとしてしまった。すると、報告した友人の後ろの方が騒がしくなる。いつの間に寄ってきたのか別の友人達が達の後ろでスタンバっていて、口々にすき放題言っているのが耳に入ったのは直ぐの事だった。
「こいつ、チャレンジャーだから!」
「相手聞いて笑っちゃったわあ」
「しかも『無理、興味ない』の一言っすよ!」
友人を励ますどころか笑いの種にしているのを、さすがに耐え切れなくなったのか振られた張本人がカタカタと自身の肩を小刻みに震わせて(心なしか拳も震えているように思う)友人たちの方を振り仰いだ。そして、一喝。
「アンタらは人の惨劇を…!」
惨劇、と言う言い方もどうかと思うが彼女からしてみれば一世一代の大告白。それが無残に散ったとなれば十分惨劇とも言える内容なのだろう。不平だとでも言うように顔中を歪ませると、ようやくそこで事情が飲み込めたのか、が口を開いた。
「酷い!ちゃんは凄く、すっごく、良い子だよ…っ!」
まるで、自身が振られたかのように、彼女の目には薄ら涙が浮かんでいた。一呼吸、…いや二呼吸くらいずれたテンポでの切り返しに、思わず友人達(振られた彼女も含めた)は一瞬ぽかん顔になった。けれどもいち早くの言葉に切り返しをつけたのは、やっぱり振られた張本人である友人だった。「良い子なのはアンタだよ…!」思わずの身体をぎゅうっと抱きしめると、は納得行かないのか本人以上に興奮した面持ちで言葉を続ける。「一体何様!?」とついに涙がぽろりと零れ落ちた。怒りが収まらないのか憤慨して言った台詞。今度それを拾ったのは、友人達全員だった。
「仁王様」
ぴたりと。まるで、練習でもしたかのようにぴったりと折り重なった言葉に、吃驚して涙が引っ込むのがわかった。言われた台詞を、ご飯を噛み砕くように復唱する。「におう、さま?」きょとん、とはわけがわからないと言った風に不思議顔を作る。すると、友人達は互いに顔を見やったあと、一人が口を開いた。
「もしかして、知らない?」
「え、えと…うん」
「マジで?知らない人なんていたんだ」
「まあこの子、疎いから」
矢継ぎ早に続く台詞を聞き溢さないようにするのが精一杯で反応する暇が無かった。全員が喋り終わった後、ようやくの口から出たのは「え、有名人、なの?」と言う腑抜けた一言だけだった。その一言に、本当に彼女は知らないんだと悟ったらしい彼女達はまるで自分の事のように説明しだした。
「仁王雅治だよ。確か隣のクラスじゃなかったっけ?すんごいカッコイイって有名の。中学の頃からモテてるって話。うちの高校のテニス部に入ってんだけどこれがちょーテニス上手いの」
「口も上手いよね」
「誰かが詐欺師って呼んでた」
一言一言に「そうなんだ」と感心していただったが、最後の友人の台詞には同じように「そうなんだ」とは思えなかった。だって今、自分の耳がおかしくなっていなければ「詐欺師」と言う単語が聞こえた気がする。は「ええっ!?」と驚愕した様子で聞きなおした。そうすれば「うん詐欺師」とやっぱり平然と肯定する友人達。はその一言に呆けてしまった。詐欺師って、つまりはアレだ。悪い事だ。詳しくは良くわかっていないだったが、詐欺師というそれが良いものかそうでないかと言われれば間違いなく後者だと間違いなく頷けるくらいの知識は持っていたからだ。まさか、高校1年で詐欺師をやってる奴がいるなんて…。このご時世全く末恐ろしい世の中になったと思わざる得ない。だってまさか同い年の男の子がそんな商売を…。と言うかそんなおおっぴろげにやってのけて良いのだろうか。いくら未成年だからってあまりにもあくどい事したらつかまっちゃうだろうに。等と悶々と考え込んでしまったは顔を暗くした。そうすればの気持ちを汲み取ったらしい友人の一人が、思わず突っ込みを入れた。
「、なんか考え込んでるとこ悪いんだけど、本物とイコールで考えちゃダメだよ?」
「へ?そうなの?結婚詐欺とか…」
「ねえよ」
口走ってしまった台詞に、コンマ何ぼのスキも与えず、激しいツッコミがの肩口を襲った。ビシィと見事に決まったツッコミは思いのほか痛くて顔が歪んだが誰一人それには気づかなかった。「まあ、なんつーの?人の行動を操るのが得意っつーか。詐欺師って言っても、コート上の、らしいよ。テニスでのあだ名っぽい」と、解るんだか解らないんだか結局のところ理解出来ない説明をされて、は混乱から抜け出せなかったが、結局彼がお金儲けのそれをしているわけではないことだけは解ったようだった。「ふうん」と差して気にしていない様子のに「まあにとってはどうでも良いかもね」と友人がまるで5,6歳児を相手にするような言い方をしてその話を打ち切った。
一通り騒いだぞ、と言う風な満足感が彼女達の間で流れて、各々が席へと戻っていこうとする。気後れ気味にその様子を見やっていたははっと気づいて自分達も戻ろうと隣に居るへと視線を遣わせた。そうすればぴしりと視線が重なって、どちらともなく歩き出す。すると、後ろの方から(珍しく後ろを歩いていたのはのほうだった)囁くような小さな呟き声が聞こえてきて、はまた先ほど外した視線を仰いでを見やった。「」と自分にしか聞こえぬ程度の声で呼ばれたので騒いではいけないと思い、視線だけで訴えると、いつも大人びているの表情が曇りがちで、半分心配になる。もう半分は、やっぱり自分とは違う大人っぽさがあって、格好が良いとか様になっているとか、やっぱり美人は違うな、とか論点のズレた事をは思っていた。そんなの心情には気づかないはコツンと自分より幾分か身長の低いの肩へと額を押し当てた。ふわり、と香水だろうか?仄かに大人っぽい香りがの鼻腔をくすぐった。「?」とさっきは半分だった心配が更に増す。だって、余りにも元気が無いからだ。先ほど、振られた発言はやっぱり彼女の心に大きな傷を作ってしまったんだろうか、とはハラハラと心中穏やかではいられなくなる。すると、の肩口に顔を埋めたまま、はやっぱり声を低くして呟いた。
「、あのね」
「…うん?」
何処か言い辛そうな顔が目の端に映った。そんな顔してほしくなかったは出来るだけ相手に安心して欲しくて穏やかな表情を作る。が続きを紡ぎやすいように勤めて優しく…。そうすれば、一呼吸置いた後、が声を落として続きを紡いだ。
「あのね…私、フラれたんだけど、さ。…やっぱり、まだ諦めらんないんだ。…自分でもびっくりなんだけど…好き、なんだぁ…結構本気っぽい」
友人の小さな告白に、思わずは「えええ!?」と言う驚きを声に出しそうになった。けれどもそれは明らかにこの場にふさわしくないと何とか空気中に出来事は無く思いとどまる。心の叫びとしかならなかったので相手に聞かれる事は無かった。ほっと安堵しながらは改めての顔を見つめた。ほんのりと紅い頬。普段のクールさは何処へ消えたのか、いまや完璧に恋する乙女と言う風な表情に、可愛いな、なんては思ったがそんなのほほんとした感想を持っている場合ではない事に気づいては顔を引き締めた。
「…ちゃん」
「フラれて、未練がましいって思うんだけど、さ。それでも、やっぱり直ぐには立ち直れない。でも他の子達には言い辛くて…」
そうまで言って一度言葉を区切るとは顔を上げてに視線をやってから彼女の名前を呼んだ。呼ばれた本人はドキっとして、思わずかしこまって「はい」と敬語になってしまった。普段ならそこで「何で敬語なのよ」と笑う友人だが、今のこの状況では真面目顔を一切崩さないまま、言葉を紡ぐ。
「…、応援してくれる…?」
それはの、高校1年の冬の出来事だった。
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