Adagio
『じゃあ、風邪お大事にね、柳生君!』
………柳生君、ねえ。
去っていった少女をぼんやりと遠目で彼は見て思った。そう言えば、彼女の名前を知らない事に気づいたのは、それから少し経ってからだ。はあ…。小さな、けれども重たいため息が少年の口から漏れた。そして掠れた咳を一つ。今年の風邪はノドに来るらしいと言う事を小耳に挟んだ。熱などの症状は無いものの、見事流行に乗ってしまったらしい少年はコホコホと小さな咳を溢しながらそんな事を思った。すると、自身の周りに黒い影が出来る。ふっと顔を上げると、クラスメイトでクラブメイトである相方が自分を見下ろしている。―――待っている、瞬時に理解した銀髪の男子生徒は「よっこらせ」と面倒臭げに重い腰を上げた。また、咳を一つ。それから今しがた着ていたジャージを黙って脱ぐと、目の前の眼鏡の少年に向かって差し出した。
「ん、ジャージあんがとさん」
「もう体調の方は宜しいのですか?」
自分を気遣う声にやっぱり短く「ん」と返事をすると眼鏡の少年がしょうがないなあと言った風に苦笑いを溢す。気だるげな姿勢に喝を入れたいところだが今回は本当にしんどいらしいのが解っているため、眼鏡の彼は銀髪の少年を指して咎めたりはしなかった。コホコホ、と乾いた咳を漏らす相方を見やってから先ほど受け取った自分のジャージを羽織る。そう、今まで着ていたジャージは本来この少年の持ち物だったのだ。すると、「なあ」といつもより掠れた声が投げかけられ、眼鏡の少年は銀髪の彼を見た。「なんですか?」と問いかければ、彼は何処か遠くのほうをぼうっと見つめている。必然的に眼鏡の少年もそちらに視線を流した。そうすれば、続けられる言葉。
「あのちまい子、知っとるか?」
ちまい子…と単調な声と指した指の先には、確かに小柄な女の子の姿があった。質問された眼鏡の男は自分の記憶力を掘り返す。黙りこくって数秒が流れた。けれども呼び起こされる記憶の中に、残念ながら彼女を発見することは出来ず、「残念ながら」と否定的な言葉を紡いだ。きっと外部受験して、高校から立海大にやってきたのだろう。いくら私立だからと言えど、エスカレータ式となれば中学からいた生徒ならば一度や二度すれ違ったりするはずである。…目の前の無気力な男はそれだけじゃ覚えられないかもしれないが(興味が無いことにはとことん覚えない性格の持ち主だ)、それをカバーするように眼鏡の彼は記憶力は良い方だったから一度でも顔を見たり、クラスが一緒になれば忘れたりはしない。その彼がわからないと言うのだからやっぱり外部受験してきた子だと言う線が強いだろう。…銀髪の少年は思った。
黙りこくってしまった友人を横目に、
「それがどうしたのですか?」
興味本位で尋ねると、彼は素っ気無く「ん、なんでもなか」と切り替えして何度目かになる咳をついた。なんでもないと言われてしまったら、もうそれ以上追求することは不可能だ。彼とパートナーを組んだのは中学三年からの付き合いになるが、そういう性格だと言うことを知っている。自分の領域に踏み込まれるのをあまり好まない彼だと言う事を部活のパートナーと知っているからこそ、彼はこれ以上の探求をやめた。そして、唐突に質問を返る。
「咳、止まりませんね」
「ん」
「幸村君も心配していましたよ」
言われて、幸村と呼ばれた少年の事を思い出すと、銀髪の少年はうげ、と顔を歪めた。どうやら風邪を引いた初日にお咎めを喰らった事も同時に思い出したようだ。それがもう辛いのなんのって。「だらしない」だの「日ごろの行いが悪い」だの「自己管理がなってないのは選手として失格だ」だのネチネチネチネチ攻撃されて、いつもならば上手いこと交わせる事が出来るのに、風邪の所為で思考力が低下して全部の攻撃を喰らってしまったのだ。しかも風邪の所為で結構痛い攻撃として自分の記憶に残っている。
「心配、ねえ…」
打って変わって嫌そうな表情を露にした銀髪に眼鏡の男はどうやら何かあったことを察したらしく、話をそらしたのは失敗だったと気づいた。
――― ピーーーーーーィィ
集合を支持するホイッスルが鳴ったのはそれから数秒してからの事だった。ほけっとしていた銀髪の少年がやっぱり何処か気だるげに眼鏡の少年を見やると、「さ、行くかのう」と面倒くさげに歩き出す。両手をズボンのポケットに入れながらタポンタポンと歩くのでさすがにそれは許せない行動だったのだろう。眼鏡の彼が銀髪の彼に向かって注意した。
「しっかり歩きたまえ」
「…はいはい。…ったく、柳生は真面目やのう」
叱られてしまい、銀髪男はふう、とため息をつくと、それでも訊く気があったのか、ポケットに入れた両手を外気に晒した。トゲのある言い返しに「当然の事です」と何処か誇らしげに言う眼鏡の男――柳生を一瞥してから、彼はまた先ほどの少女を見やった。
彼女の方はもうコチラには眼中無いのか、今や友達だろう子とじゃれあっているのが見えた。
★★★
体育も終わりは一足先に着替えると、「あ、先に戻ってて」と言う友達の言葉に頷いて、女子更衣室を出て一人廊下を歩いていた。マラソンは好きだが、体力を消耗する。次の授業はの苦手な数学の授業だった。アレは駄目だ。教科書を目で追うだけで眠くなってしまう。魔力でも備わっているんじゃないかと莫迦な考えだと思うくらい、最強の催眠科目となっていた。しかも加えて今日はマラソンでいつもよりも張り切って体育をしてしまった。ははあ、とため息をこぼす。
絶対寝ちゃうよ。
至極どうでも良い自信がの中に出来た。そんな自信なんて全然有り難くないが、事実だ。はあ、とまたため息をこぼして教室へと向かった。何とか眠っても先生にバレなければ良いなあ…。そんな良からぬ期待を込めて。――少し歩いた時だった。見知った横顔を発見して、は目を見開いた。決して見慣れてはいないが、見たのは今日…先ほどの授業の時なので未だに鮮明に思い出される人物。すると横を向いていた彼の顔が、ゆっくりとに振り向いた。銀髪の髪が空気に踊る。5限に初めて見たばかりだが、やっぱり綺麗だなぁと思わずにはいられない。一瞬見惚れて、我に返ったのは彼の「なあ」と言う声だった。
「え、あ」
見惚れてしまった事にちょっとだけ恥ずかしさを覚えて、慌てて取り繕うと目の前の少年がこちらを凝視してそれから何も言わなかった。「なあ」と呼びかけられておいて沈黙になるから、自然とが喋り手になる。「柳生、君?」戸惑いがちに問いかけると、銀髪の彼は罰が悪そうに顔を上げた。「ん」と短い声が返ってきてちょっとだけ安堵。はふわ、と柔らかく笑むとほんの少し彼に近寄った。「咳、止まったみたいだね」と問いかけると銀髪を揺らしながら
「ん。飴、さんきゅ」
とやっぱり短い台詞が返って来た。きっと柳生君は喋るのが苦手なんだろうな…なんて自己完結させては心の中で笑う。すると今度は彼の方がに一歩近づいて、質問をした。
「お前さん、名前は?」
「え?」
「…見たところ、高等部からの子じゃろ?」
問いかけられては一瞬ぽかんとして。それをゆっくり理解するとこくりと頷いて笑って見せた。5限目のときにもう名乗った気で居たのは、自分が彼の名前を知っていたからだろう。(実際本人から名前を聞いたわけじゃないが聞いた気で居たのは不思議な気分だ)実は名前も名乗っていなかった事にわたわたと反応して慌てて名前を述べる。
「だよ」
それから「今更だけど宜しくね」と軽くお辞儀をすれば目の前の彼が「ん」と頷くのが解った。「、な」と確認するように紡がれた自分の名前が何だか新鮮だと思った。そして、別の意味でまた「」と彼の口から紡がれて。「へ?」と顔を上げると
「そろそろ予鈴がなるぜよ」
「あ、あわわ。ほんとだ」
「…数学、サボるんじゃなかよ」
それからぽん、と頭を撫でられる。なんであたしが数学だと言うことを知っているんだろう。疑問に思っただったが、体育が合同だと言う事は先ほど知られている事に気づいた。B組の知り合いが居れば自ずと次の教科の事も知ってるんだろう。そう自己完結させて「はあい」と苦笑交じりで答えると、彼も釣られたようにほんのちょっとだけ笑んだ。
「じゃ、これから宜しく。…」
そう言って、からぎゅっとの掌を握った。同時にくしゃり。と掌の中で音が鳴る。何かが掌に入れられたんだとは気づいて彼の手が離れたと同様に閉じられた自分の手を開く。するとそこにあったのはクシャクシャにされた一見ゴミにしか見えない紙。でも良く見るとそれには何かが書いてあったようで?と首を傾げて見上げるとイタズラな笑みが視界に入った。
「え、と」
「飴のお礼がしたいけえ、もしOKなら放課後音楽室。駄目ならそれに連絡しんしゃい」
言ってきびすを返す彼の背中をぼんやりと眺めた。でもそれからはっとしてもう一度自分の手の中の丸まった紙を今度は広げてみせる。そうすればちょっとだけ乱雑な字で書かれたメールアドレス。それを見やってもう一度視線を彼にのばす。もう彼はこちらを向いてはおらずの目に映ったのは彼の後姿だ。その後姿に声を伸ばした。
「行く!…絶対行くよっ!」
もう彼がこちらを振り向くことはなかったが、変わりに「了解」の意味でだと思う。右手が上げられた。変わった出会い方をした銀髪の少年の後姿を眺めていると、予鈴が鳴って、は慌てて自分の教室へと戻っていった。は貰ったメールアドレスの載った紙を丁寧に折りたたむと、大事なもののようにそっとスカートのポケットの中に仕舞いこんだ。放課後が楽しみで仕方ない。数学の授業は苦手だけど、今日ばっかりは疲れていても眠れそうにないなと思った。
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