Adagio







短いホームルームがこれ程長く感じた事が、今までにあっただろうか。はそわそわと落ち着かない様子で、教卓の前で喋り続けている担任をチラ見した後、バレないように机の下で自身の携帯を取り出した。なるべく音を出さないように慎重に二つ折りのそれを開き、ディスプレイ画面を見つめると、少し緊張した様子でアドレス帳を開いた。カコカコカコとキーを打つ音が、少しだけ携帯から生み出されていたが、然程気になる音量ではない為の手は躊躇しなかった。そして、規則正しく動いていた指が、カコ、と言う音と共に止まった。そしてディスプレイに映るのは一つのアドレス帳だった。今日、出来たばかりの新しいメモリに、顔の筋肉が柔らかくなるのを感じて、はいけないいけないと顔を強張らせた。此処で笑ったらいくらなんでも不審人物に成り下がってしまう。それでもやっぱりちょっとだけの顔の筋肉は緩んでしまったが。画面に映るのは、「柳生君」と言う文字。その字を見つめてが思い返すのは今日出会ったあの銀髪の少年。無気力そうな感じが見受けられたがきっとそれは体調の所為なんだろうか。ひっきりなしに乾いた咳をしていた事を思い出す。どう考えても風邪を引いている彼を思って、ちょっとだけ気分が沈んだ。この後の事を考えると、だ。「放課後会おう」と言ってくれた。「絶対行く」とは返事をしたものの、こんな事に時間を費やして良いんだろうか。帰って寝ていた方が良いんじゃないか。はたまた部活は大丈夫なのだろうか、とか(と言っても自身彼が部活に入っているかさえも知らないんだが)色々考える事は合ったが、けれども結局のところ会えるのが嬉しくないと言ったら嘘になるのでどうしても楽しみに思ってしまう。また緩み始めた頬を引き戻すと、漸く長い(の気の持ちようで、いつもと変わらないHRの長さだ)ホームルームが終わりを告げた。






★★★






「そうだよね、普通は…閉まってるに決まってるよねえ」


呟いた台詞は、廊下に空しく響いた。SHR終了後、友人たちの誘いを断って一目散に約束場所である音楽室前にやってきた。廊下を歩く足取りは軽かった。…気分も上々だった。ドアに手をかけるまでは。ドアを普段の教室の要領で空けようとして、ふっとは気づいた。聞こえてきた音は「ガコ、」と言う何とも不細工な音。―――鍵が閉まっている。その事実に気づいたの気分は下降を辿っている。そう、音楽室は普段は授業中と掃除の時間以外は使われない教室の為、放課後等は閉まっているのだ。鍵は勿論職員室に合って、簡単には貸してもらえない。部活動である吹奏楽部の人達は音楽室の横の第2音楽室を使っている為、用も無い。


…なんで柳生君音楽室って言ったんだろう…?


もしかして、ただの社交辞令だったんだろうか。そう思うとちょっとだけショックだ。折角出来た友達だと思っていたのに…。はつきたいため息を空中に出さず喉に押しやった。ため息をついたって状況が変わるわけでもない。寧ろもっと自分が惨めになるだけだと言うことに気づいての行動だ。どうすれば良いんだろう。当ても無くブラブラ歩いて帰ろうか。いつまでも音楽室の前に経っていては怪しまれてしまうだろう。そう考えるけれども…名残惜しい。来なかったらもっと悲しくなるだけなのに。ツン、と鼻の先が痛くなる。今自分が泣きそうになっているんだと自身気づいた。ああ、情けない。
―――そう思った時だった。


「コラ」
「っ」


コツン、と後頭部に軽い衝動が起こって、はほんの少し上体を前に屈めた。ふ、え。と間の抜けた声が自身の口から零れ落ちて、それから衝撃を受けたであろう部分を掌で押さえながら振り向くと、目の端に銀色のそれが映った。柳生だ。瞬時に理解して、同時に顔が緩む。自然と笑顔になりながら「柳生君」と彼の名前を呼ぶと、彼は少し罰の悪そうな顔をしたが、それは一瞬の出来事だったのでは気づかなかった。「あ」と小さく声を漏らすと、ヤギュウに向かって「音楽室って聞いたから来たけど…開いてないのにどうするの?」と問いかけた。すると、「んあ?」と気が抜けるような声が銀髪の口から漏れる。それから、にや…とほくそ笑むとの手首を軽く掴んで引っ張った。重力によって柳生のほうに身体が自然と傾いて驚いたような声がの唇から零れた。そして引っ張られるままとにかくコケないように気を張りながら着いていく。


「この上じゃけ」
「え、」


言われてはぽかんとしてしまった。彼が示した場所は音楽室の横にある階段だ。その上…と言うことは決まっている。三階までしかない校内の上。…屋上だ。はそれに気づいて眉根を寄せたが、彼の方は何とも思っていないようだ。さあさあとぐいぐいの手首を引っ張ってわが道を行く。良いのかな、良いのかな?と思っていたがそう思っているのは彼女だけのようだ。飄々と歩く彼の足取りは見事なほどに迷いが無い。


仕方ないよね。手、掴まれてるんだし。


拘束されている手首を見て、躊躇いつつも階段へと足を伸ばした。仕方ないんだ。と二度呟く。けれどもそれはただのの建前だ。実際本気で嫌だと振り払えばきっと彼は無理強いはしないだろう。結局のところ、理由が欲しかっただけだ。自身が彼に着いて言っても良い理由。それを確固なるもにしたかっただけなのだろう。握られた手首が急に熱を帯びたように熱くなった気がした。


「でも、入れるの屋上って」


然程長くは無い階段に二人の足音がタンタンと言う規則的な音が刻まれる。人も疎らになっている今がチャンスだろう。本来なら屋上は立ち入り禁止場所のはずだから、見つかったら大変な事である。躊躇いがちに問いかけると、やっぱり彼の顔は飄々としていて、態度も毅然だ。「ん、」と短い声が下りてきて、は次に続く言葉を待った。彼の説明ではどうやら、最近屋上のドアに付けられている鍵が壊れているらしい。最近買ったドライバーでいじくったら見事開いたそうだ。それって犯罪なのでは…?瞬時に思ったが、それを話すヤギュウが余りにも年甲斐も無く嬉しそうに話すので(それはまるで小学生みたいに)まあ良いか。なんて思ってしまった。




「う、わあ…っ」


次にが声を上げたのは、歓喜の色が混ざっていた。屋上の扉を開けたその奥は、青い空がの目に飛び込んでくる。屋上は立ち入り禁止だから入るのが初めてなわけである。は興奮して子どものようにはしゃいでしまった。本来そこまで身長が高くない(多分低くは無い。平均並だろう)はいつも見る空よりも近くに見えるそれを見上げた。さすがに12月に入った為、風は冷たいがそれ以上に良い所だ、と感じる。


「…お気に召した?」


彼からの声が降りかかってきたのはそれから数秒後の事だった。はハタ、と状況に気づいて彼を見上げると、にっと笑みを浮かべて「バッチリ!」と声を張り上げた。どうやらココは既にの中でベストスポットと印象付けられたようだった。そんな様子がありありとわかったのだろう。彼は「そりゃ良かった」と短く返すと、再び歩き出す。はきょとんとその行動を見ていたが、暫く経ってもやってこないに痺れを切らしたのか、振り返ったヤギュウは来い来いとに向けて手招きをした。そこで漸く自分もついていって良いのだと判断したは慌てて小走りに近寄る。そして中央に立つ壁をポンポンと少年が叩くのではそれを見上げた。―――給水タンクだ。それを確認した時にヤギュウの方を一瞥すると、もう少年は上に伸びているはしごに足をかけて登ろうとしていた。ヤギュウが登っていくのを確認して自分もちょっと考えた後、はしごに手を伸ばした。ひやり、と冷たい鉄の感触がして鳥肌が立つ。いくらコートを着ていてもちょっとだけ寒いな。と思った。


数段のはしごを上って、後ちょっとで登りきるといったところで、「ほい」と手を指し伸ばされた。引き上げてくれるという意味だろうと気づいて右手を差し出すと、ぐい、と軽々とヤギュウはの身体を引き上げた。そして、ようやっと頂上へたどり着く。そこで、先ほど考えた疑問を口に出した。


「どうして上に上がったの?」


別にこうまでしなくても下のほうでのんびり話せは良かったのではないだろうか?上でも下でも寒いことには変わりない。それならわざわざ上に上がらなくても…とは思ったのだ。そうすれば少年は一度を一瞥して、にぃ、と一笑した後、ぽか、との頭を小突いた。


「あほう、此処は立ち入り禁止場じゃぞ?もし居るんがバレたら怒られるぜよ」
「あ、そっか」
「それに…」


言って、四つんばいで歩き出す彼に続いて自分もついていく。そうして見えた光景に「あ」と声を漏らした。彼を見ればドッキリ成功、と言った風に可笑しそうに笑う銀髪の少年の顔が合った。


「お菓子も堂々と食えんしのう」


給水タンクの裏にあったのは、袋いっぱいのお菓子だった。聞けば、SHRをサボって近くのコンビニで買って来たそうだ。こんな量食べるの?と続けて聞くと、の好きなお菓子がどれかわからなかったから手当たり次第買ってみた、と飄々と言ってのけた。


「柳生君って…実は結構悪だね」


ひとしきり説明を聞いた後、の口からついて出たのはその一言。聞いたヤギュウは一瞬ぽかんとした後、やっぱり意地の悪い笑みを浮かべて「プリッ」と呟いた。それから大きな袋をの前に差し出して袋の中身を漁りだす。「何食う?」…どうやら否定する気はないようだ。そんな彼にしょうがないなあと言う風な笑みを浮かべてから、も袋の中身を確認する。


「あ、これ冬季限定のお菓子、あっ、これ新発売の!」
「…って実はお菓子マニア?」


思わず子どものように(と言っても大人から見れば高校1年なんて子どもなんだが)はしゃいでいると、向かいでくつくつと笑い声が聞こえた。は急に恥ずかしくなって「普通だよ!マニアって…」と勢い良く返したが、あながち間違って無いことだった。新発売や何とか限定!などというフレーズを見るとどうしても食べてみたくなってしまうのだから。と言っても一気に食べるような事はしないのだが。


「でも、これ全部食べようと思ったらすんごい量だよ?」
「ん、そうじゃの」
「…食べれるの?」
「無理やろ」


淡々とした会話を繰り返す。が質問して、ヤギュウが答える。最後にヤギュウで終わると、その答えに納得できなかったのかは「えっ」と声を上げた。するとそれを汲み取ったヤギュウはニィ、と口の端を上げると言葉を続けた。


「じゃけ、無くなるまで協力してくれん?」
「えっと、それって…」
「…にまた会えんかなーと思って。放課後」


言われた言語を理解するのに、の脳は数秒の時間を要した。のち、固唾を飲み込んで一呼吸置いてYesの意味を唱えたのは、聞かれて1分くらい経った後の事だった。


「勿論っ!」


頬が赤くなっていたのは、12月の冷たさの所為だろうか。それともヤギュウの笑顔の所為だろうか。には解らなかった。「じゃあ、来週もまたこの時間に」彼の染め上げた銀髪がひゅう、と北風に撫でられて空を舞った。


と彼の、二人だけの秘密の約束の時間の始まりだった。










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