Adagio







「―――と、言うわけ、なの」


朝の出来事を一通り喋り終えたは、唇をぐっと一結びさせてから、ちらり、と隣の人物に視線を遣わせた。ヤギュウの顔は何とも形容しがたいものだった。当たり前だ。は心の中で納得する。唐突過ぎる。何せ、昨日が初対面の人だ。いくら仲良くしてくれると言ったとしても、順序があるに決まっている。浅い友人付き合いでこの話はちとヘビーなモノだろう。無言になったままのヤギュウに慌てて「ごめん忘れて!」と口を開こうとした時だった。


「スマン」


聞こえてきたのは、謝罪の声。勿論、それを発したのはでは無い。ともすれば必然的に言った本人は一人しかいない。その一人を唖然と見やると、言い辛そうにヤギュウが口を開いた。綺麗にカラーリングされた銀髪がふらり、と動いたのを目の端に止めた。


「…言葉が、見つからん」


それで、スマン。なのだろう。ようやく彼の「スマン」の意味がわかって、は慌てて声を上げた。


「そんな!柳生君が謝る事じゃないよ!あの…あたしこそくだらない愚痴聞かせちゃってごめんね?忘れて」


出来るだけ目の前の少年が気を遣わないようにと早口で捲くし立てた。それからにこっと笑顔を一つ。すると、ぽん、と小突かれる頭。え、と見上げれば


「阿呆、くだらない愚痴、なんかじゃなか。…にとっては、大切な事じゃろう。それをくだらんなんて言葉で片付けちゃいけんやろ。…訊くことしか出来んけど、だからって言って笑って誤魔化しちゃいけんよ」


言われては泣きそうになった。「うん」小さく頷いて、顔を隠す。それから続くのは「ありがとう」と言うお礼の言葉。今の言葉で何だかすうっと救われたのだ。泣きそうになる眼をぎゅっと瞑って、泣くのはなんか違うと思って、はぎゅっと唇を噛んだ。暫くするとジンと感じた熱が冷めていくのに気づいて、ふう、と安堵する。それから顔をゆっくりあげたのは低い声を聴いたから。


「それに…―――」


けれどもそれは風の音と共にに届くことなく去っていく。が顔を上げて見たヤギュウの顔は何故か暗い。小さすぎて聞こえなかった言葉の所為だろう事は解ったが…一体何を言ったのか。聞こえなかった自分を悔やむ。「柳生、君?」聞こえなかったが不安な表情を読み取って、さえも不安げな声が口から漏れた。も一緒に不安になってもどうしようも無いことだが、目の前で落ち込んでいる(少なくともにはそう見えた)人が居るなら、自ずと自分も落ち込んでしまう。喜怒哀楽と言うのは人によって移り易いというが、の場合も例に漏れず全くその通りだった。不安げな声色がかかって、ハタ、と気づいたのは少年だった。慌ててに目をやると、今にも泣き出しそうな顔が目に捉えられて…


「…そんな顔しなさんな。何でもなか」


そんな顔、とは不安そうな顔、の事だろう。え、っとが言うより早くに彼がの頭をくしゃくしゃと撫でる(の表現よりはもっと荒い)ものだからは何も言えなくなってしまった。数度ぐりぐりと頭を攻撃されて、離された頃には、の頭は見事鳥の巣状態と化していた。突然の行動にポカン、と半開きになった表情が、更に笑いをそそられる。「ブッ」と声が漏れたのは銀髪の少年だった。暫くクックッと声をかみ殺して笑う姿を呆然と見やっていただが、暫く置いて、ハッと自分自身の事が笑われているのだと気づいて、慌てて髪の毛を直そうと思った。が、手はやっぱり止まったままで。―――そして、ふわり、と笑った。


「あはっ」


聞こえてきた声に今度きょとんとするのはヤギュウの方だった。突然笑い始めたを見つめる。だって、おかしい。目の前のヤギュウ自身が笑うのならわかるが、今笑っているのは髪の毛をぐしゃぐしゃにされているだ。普通なら怒ることはあっても、笑うことなんてないだろうに。不可解なの笑顔に「どうしたん?」と不思議そうに尋ねると、は笑みをそのままに喋りだした。


「ん、なんか…良いなって」
「は?」
「なんか、悩んでるの、勿体無いなーって。それに、なんか柳生君の笑顔みたら、よかったなって」
「前半はわかるとして、後半がわからんのじゃが」


眉根を寄せるヤギュウに、あ、そうだよね。と声を出したのはだ。それから拙い言葉を必死に選ぶ。


「さっき柳生君苦しそうな顔、してたから。だから、なんか良かったって。…柳生君はやっぱり笑ってる顔の方が素敵だよ」


語尾の最後ににこっと笑う。恥ずかしげな台詞を臆面も無く言えるところにヤギュウは感心したがそれは一瞬の事で、言った本人でもないのに、何故か、自分が恥ずかしくなってそれを見られないように顔を背けた。ヤギュウの仕草の意味には気づかない。機嫌を悪くさせてしまったんだろうかと不安になって、


「あ、昨日初めてあったのに、解った風に言っちゃってごめんね?」


と、付け足した。そうすれば、間を置いて「そんなんじゃ…」と否定的な言葉が紡がれる。未だに顔はそっぽを向かれてるが、どうやら怒っているわけじゃないらしい事には安堵する。何故か、隣に居てくれるヤギュウには嫌われたくないと強く思った。…万人に好かれたいなんて絶対無理だとわかっていたが、この少年にだけは、何故か、絶対に嫌われたくないんだと、心の中で想ったのだ。


「…俺は」


すると、ぽつりと呟かれる言葉。「え、」と声を小さく聴き返すと、ヤギュウは決してを見ないまま言葉を重ねる。その目は何処か遠くを見ているようだった。先ほど笑っていたときの表情とはまた、違う。真剣で、けれど何処か淋しそうな、哀しそうな瞳。


「俺は、にそんな風に言ってもらえる程の良い奴じゃないぜよ」


何処か、辛そうに。ツキン、とは自身の胸が痛むのを感じた。どこかで見た表情。いつだった?と考えて、昨日の放課後の事を思い出す。真剣に、何かを言おうとしていたヤギュウの顔が、今の顔をダブって見えた。
『どういう意味?』言いたいハズなのに言葉にして出てこないのは、その苦しそうな顔の所為だ。はただ、ぎゅっと唇を噛み締めることしか出来なかった。かける言葉が見つからない。けれども、言いたいことはあるのだ。そう思ったら、の手が、恐る恐るではあるがヤギュウのほうに差し述べられた。ぎゅ、とその小さな掌が少年の制服を弱々しく握り締める。


「…なんで、柳生君が、そんな風に言うのかわかんない、けど」


言いたい言葉は、伝えたい感情って言うのはどうしてこうも難しいのだろう。人は、生きていくために、意思疎通を図るために『言葉』を生んだという。自分の気持ちが相手に伝わるように。感情を表す一つの手段として『言語』を作った。実際それによって過ごしやすくなっただろう。一見使いやすく簡単な事の様に思える。だけれど、実際は違うんだ、とは思った。だって、こんなに難しい。自分の気持ちを全部さらけ出すのに言葉と言うのは余りにも小さい。でも、


「あたしは、少なくともあたしはね、柳生君が笑ってるほうが良いと思った。柳生君には迷惑だったかもしれないけど、あたしの悩みを黙って聞いてくれた事、さっきの言葉、笑ってくれた事であたし、前に進めた気がする。そう思えるようにしてくれた人に苦しい顔、してほしくないよ」


伝わって欲しいと思った。全部が無理でも、出来るなら、苦しい顔から笑顔に変わるくらいには伝わって欲しいとは願った。


「あたしは…柳生君を、悪い人だなんて思えないよ。…だから、だからね」


それなのに、言いたいことが言えなくて。空回りばかりしてしまう。口から出るのは安っぽい言葉にしかには聞こえなかった。自分自身がそう感じてしまうのだから隣で聞いているヤギュウは更に胡散臭く思うに決まっている。こんな時、は自分自身が厭になる。もっと頼りがいのある人になれたら良いのに。友達が苦しんでいる時に、助けになれる自分になれたら良いのに、と。自分の一言で相手を安心させてあげたいのに。強く想うのに、実行に表せない自分が厭になる。ぎゅっとヤギュウの冷えたブレザーを握りしめる手が震えるのが解った。続きの言葉が出てこなくて、情けなくて泣きそうになる。弱虫だ。すると、握っていたの左手にそっと手が添えられた。
え、と顔を上げると重なっていたのは銀髪の彼の手だった。の手とは違って温かみのある掌。ぼんやりと眺めていると、「さんきゅ」と紡がれた言葉。顔を見ようと見上げれば、苦笑いに近い、笑み。それでも先ほどよりも幾分か良くなった表情。続きを喋るはずだった舌はそのまま止まってしまった。左手に感じていたぬくもりがふっと消え、次に感じたのは、頭にのったそれ。
さっきのぐしゃぐしゃとめちゃくちゃにかき回されたそれではなく、優しい仕草に更に何も言えなくなってしまった。そしてもう一つの理由が


「ほんま、スマンの」


余りにも、切なく笑うから、本当に本当に伝えたかった言葉が言えなかったのだ。「う、ん」歯切れの悪い言葉しかの口からは出てこなくて……。
そんな、何処かぎこちなさが残った昼休み。休憩の終わりを知らせる予鈴が、じんわりと胸に響いた。










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