Adagio







それを隣の少年は見て、自身の胸が痛むのに気づいた。


…もう、限界かの。


心の中で潮時だと知る。早く言わなければ、手遅れになることを彼は知っていた。ハッハ、と隣から小さな息遣いが聞こえてくる。合流した時よりも随分速い息遣いだ。けれどもその違いに銀髪の男は気づかない。チラリとの方を見つめて、彼は意を決して息を呑んだ。―――自分の事でいっぱいいっぱいだったのだ。


「なあ」


走る速度が速くなる。それは、決心したことに対しての罪悪感だからだろうか。意味は解らなかった。「…ん、んー?」苦しそうな小さな声が聞こえてくる。でも、今の彼には気づけない。とりあえずの返事が返って来た事に動悸が早くなることに気づいて、先ほど決断した事を口にしようと唇を震わせた。


「なあ、もし…俺が――」


それは、一週間前に言おうと思っていた事。ごくりと唾を呑み込んだ。


―――その時だった。


「きゃ…っ!」


それは、スローモーションのように少年の目に映った。けれども実際は数秒にも満たない短い時間。勢い良くの身体が前へと傾き、そのまま転倒した。慌てて手を伸ばしたが、一歩追いつかなかったのは、きっと今まで考えていた所為だろう。ズザッ―――…豪快な音と共には舗装されたコンクリートへと投げ出されるように倒れこんだのだ。


「お、おい!」


ガラにもなく、少年は狼狽した。急いで自身の足を止め、を助け起こす。そこまで強く引っ張ったつもりはないのに、思いのほか軽すぎたのか、ひょいっと簡単に身体が起こされた。そうして見えたの顔に、息を呑む。頬とおでこに擦り傷がくっきりと見えた。


「へ、へへ…ごめん」


ドジっちゃった。乱れた息が邪魔をしながらも何とか言い終えた台詞。そこで、彼はようやく気づいた。男女の差、に。出会った時から、あの放課後の日から、これからは気をつけようと思っていた筈なのに、結局今日も考え事をしている所為で、気づかないうちにスピードが速くなっていた事。運動部の感覚で走っていたのに、が転ぶまで気づけなかった事に唇を噛み締める。は恥ずかしそうに笑っていたが、少年は同じように笑えなかった。「――スマン」ぽつり、と溢した声に、驚いたのはだ。「どうして柳生君が謝るの?」と言う問いかけに、彼は罰が悪そうにに視線を遣わすと、きゅっと口を締めて「保健室」と単語を放った。


「えっ?」
「そんな傷で、走れるわけなかろ」


素っ頓狂な声を上げたとは対照的に淡々と落ち着いた口調で言い退けた彼に思い切り否定したが、じっと見てくる少年の視線を辿っていけば―――そこは痛々しい程の擦り傷があった。傷口から滲み出ている血液が膝からゆっくりと下へ垂れている。それを自分の目で確認した瞬間、ズキリ、と先ほどまで何とも無かった膝の傷が痛むのを感じた。呆然と立ち尽くしてしまったにふう、と小さな嘆息を吐いた少年は「ほら」と促すようにの前へと背を向けるように屈んで見せた。「えっ?」またの口から間の抜けた声が溢される。


「おぶるから、はよ乗りんしゃい」


いつも見上げるばかりだった男を、見下ろすと言うのはにとって新鮮な出来事だったが、それの感動に浸る暇はないようだ。発された目の前のヤギュウの台詞を理解するのに暫しの時間が流れて―――、その後、思い切り首を横へ振った。


「い、良いよ!悪いし重いし恥ずかしいし!!」


おんぶ、なんて幼少期以来だし、何せ転んだのは自分自身の責任だ。ココまでヤギュウにしてもらう義理は無い。そして何より恥ずかしい。高校1年にもなって転んで負ぶってみんなの注目を集める、なんて目に見えている。羞恥心でどうにかなりそうだ。そんな思いから思い切り否定しまくると、の台詞に痺れを切らしたのか、背を向けていた彼が顔だけをに向けた。


「良くないじゃろ!別に悪くないし重くもないし、恥ずかしいっつーんならコースから外れて帰っちゃる!」


有無を言わさぬ言い方に、はビクリと身体を震わせた。切れ長の瞳がを見上げている。見下ろしているのは確かにの方なのに、迫力のある言動には咄嗟に言葉が出てこなかった。しどもどしていると、ヤギュウがから視線を外し、ポツリと呟く。


「…それに、転んだのは、俺が速く走りすぎたせいじゃろ」
「そ、そんなことないよ!あたしの不注意!」
「気ぃ遣わんで良い」
「気、遣ってないよ!本当に柳生君が悪いわけじゃないんだもん!」


押し問答を繰り返す。これじゃあ生徒が来るのも時間の問題だろう。ヤギュウはふう、とため息を吐き出すと、「とにかく」とはっきりとした口調で言葉を並べ始めた。


「俺が心配やけ、……頼む」


頼む、言われた言葉は何故か重く、は否定しようと口を開いたが何もそこからは発せられる事は無く、また閉ざされた。それからじっとヤギュウを見やって。―――「…う、ん」観念したように小さく頷いた。「ん」、と促されるようにの声が続く。ドクドクドクとの心臓が騒ぎ出すのが解った。…実際、男の子におぶられるのなんて初経験なわけで緊張してしまう。幼少の頃、おんぶされた事は幾度かあったが、それは全て血縁者だ。同い年の男の子…とはやはり違うだろう。恐る恐る彼のほうに手を伸ばし…そっと、ヤギュウの両肩に両手が触れた。異様に触れた箇所が熱い気がするのは、緊張している所為だろうか。


「お、重かったら言ってね?」


一言言いながら、また恐る恐るヤギュウの身体に身を預けるようにすると、彼の手が足に回るのが解った。ああ、なんか心臓が破裂しそうだ。思っている間にの身体がゆっくりと地上から離れる。「しっかり掴まっときんしゃい」普段よりも幾分も近くに聞こえる声に、は声が出てこなかったが、代わりにぎゅっとヤギュウの服を握った。気を抜けば、心臓が口から出そうだと現実には有り得ない事を思い浮かべていた。
未だに落ち着きを見せない心音が、おぶってくれているヤギュウに聞こえなければ良い。思いながらまだ遠い学校までの道中、祈った。






★★★






それからヤギュウはの「恥ずかしい」の言葉を汲み取って脇道から帰ってくれた為、見事誰とも出くわすことなくグラウンドに戻ると、近道だった所為か、まだ誰一人としてゴールしたモノは居なかった。ゴール付近で待っている体育教師に軽い事情を説明――と言っても転んだので保健室に連れて行くという一言だけ――して校庭を後にする。やっぱりココでも誰一人として出会うことは無かった。
無事にを保健室へ送り届けると、保健医が適切な処置を施してくれた。(と言ってももう大分前から止血していた)まだ少し痛むが我慢出来ない痛みではない。


「運んでくれてありがとう、柳生君」


ようやく余裕が出てきた時、はふわりと笑うとヤギュウに頭を下げた。ヤギュウはヤギュウで何故お礼を言われるのか解らない。元はと言えば自分が速いペースで走った所為なのだから。


『あ、っあれはっ…自分のペースでっはし、走る…からっ』


確かにそう自分は聞いたのに。気をつけようと思っていた矢先なのに。何だか自分が凄く格好悪い。この少女を前にすると、いつもの自分じゃいられなくなることに少年は気づいていた。
そして、同様に彼女が居るだけで、と話しての無雑な笑顔を見るだけで、胸の方が暖かくなる事にも気づいていた。それがどういう感情なのか、知っていた。
けれども、それと同等…もしくはそれ以上に募っていく罪悪感も感じ取っていた。真実を知ったらきっとは自分を忌避することにも気づいていた。何のまじりっけもない笑みを浮かべるに対して、ぎこちなく…それでもに悟られないように、釣られて少年も笑ったが、きっと自分はのように笑えていないんだろうと言うこともとっくに解っていた。それはに対する様々な想いが彼をそうさせたのだろう。は気づかなかったけれど。


5時間目の終了のチャイムが、遠くの方で聞こえた―――。










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