Adagio
銀髪の少年は、一人廊下を歩いていた。先ほど鐘が鳴った事から、ただ今の時間が休憩中だと言う事が解る。保健室に行くまでは静かだった廊下も、今では生徒達の喧騒が否応なしに彼の耳に届いた。そんな中、聞こえる声。自分の噂話をされているのだと言う事が内容からして解る。銀髪の少年は時折感じる視線に気づきながらも、あえて気にならないので全てをシャットダウンするように何でもなく歩いた(実際、何でもないんだから気にする事も無いのだが)
――そんな時、だった。ふ、っと視線が合ったのは。普段なら、目が合おうがそれが親しい者じゃないと判断すればスルーを決め込む少年が、今回ばかりは足を止めた。目の前に見える人物に、心辺りがあったのだ。親しい訳ではない。それなのに、流すことが出来なかったのは。
―――彼女が自分の名前を呼んだのと、そして先日の件が関係していたからだ。何でも無い風を装って、「こんちは」と挨拶をした後彼女の名前を呼ぶと、彼女はぎこちない笑みを浮かべた。それから何か言いたげな様子を表す。親しい間柄な訳じゃない。普段なら面倒事は気づかないフリをする。それがこの男。それでも、それを拒めなかった。彼女がその"何か"を紡ぐ前に「…外出るか」と手短に言い出した。その事に彼女は一度鳩が豆鉄砲を喰らったかのように驚いたような表情を浮かべた。この男がそういう切り替えしで来るとは思っていなかったのだろう。けれども、彼女の選択肢は決まっている。静かに「…うん」と首を縦に振って、そう遠くない外へと向かって歩き出す。…外野がそちらをチラリと盗み見したのち「わあ」と声を上げた気がしたが、今の彼と彼女にはどうでも良い事だった。
★★★
中庭に出ると、やっぱり制服だけじゃ寒いらしく、身体中が小さく震えるのが解った。それでも、中に入る事が出来ないのは、内容が内容だからだろう。まだ知らぬ内容だったが、きっとそうだ。と言う確信めいたものが少年にはあったのかもしれない。人気の無い場所にたどり着いて彼が立ち止まると、後ろから着いてくる少女が、「やっぱ寒いね」と遠慮がちに言ったのが耳に届いた。「ん」と短く返事を返したがそれが少女に聞こえたのかは知れない。
ひゅう、木枯らしが吹いたのを合図に喋りかけたのは、女の方だった。
「…何か、"意外"だった」
一言。ポツリと。それが何を意味する言葉なのか、頭の良いこの少年には直ぐわかった。改めて彼女に向き直ると、銀髪の間から切れ長の瞳を覗かせて、彼女を見やる。自分でも、意外だと、思った。それでも「何が?」と問いかけるのは、相手の反応を窺いたいからなのだろうか。冷めた風に温度差の無い口調で言いやると、彼女の瞳から少し不安げな感情が垣間見える。
目の前にいる少女との関係は、中学時代に遡る。中学三年の頃、同じクラスだった同級生。ただそれだけの関係だった。つい、先日までは。
「…告白して、振った子、無視しないとか」
不安げな表情をそのままに銀髪の彼を見つめる。
そう、先日までは、ただの元クラスメイトで、何処にでも居る一同級生で。それ以上でもそれ以下でもない関係だった。クラスが離れれば接点が無くなる。そんな、短い付き合い。そう思っていたが、先日、そんな同級生から告白をされたのだ。
ぼんやりと考えていると、まだ少女の言葉が続く。
「てっきり、上手いこと言って流されるかと思った。…まるで何も無かったみたいに、さ」
言い難そうに。けれどもはっきりと言い終えた彼女を黙って見つめていたが、ふっと視線を彼女から逸らして、別の事を考えていた。
『そう、だけど…でも、でもねやっぱり言い方ってものがあると思うの!…友達は真剣だったのに』
あの時、脳裏に浮かんできた少女の台詞と少女の辛そうな顔が、少年を躊躇させたのだ。まるで、自分が振られたみたいに傷ついた顔をした少女――。そんな顔をさせたくなくて、思わず今回普段は起こさない気を働かせたのだろう。「まあ、な」と含んだように言いやると、目の前の少女が軽くこうべを下げる。
「良かった」
聞こえてきたのは、幻聴なんかじゃないだろう。いや、幻聴なら良かったのに。と反対に少年は思った。変わらない無表情のまま少女を見下ろすとその顔は本当に嬉しそうで…何処か、泣きそうになっている事に少年は気づき、顔を歪める。やっぱり自分の行動は間違っていたのかもしれない。本来彼は鈍い性格じゃない。寧ろ、人の気持ちを汲み取るのに長けていた。だから、解る。―――気を持たせてしまった事。を傷つけたくないあまりにした行動で、目の前の少女をまた傷つけてしまうかもしれない事に少年はいち早く気づいた。今の言動を見ればまだ自分に気があること位彼には解ってしまった。これは自惚れでは無いだろう。ほんのり上気した頬、薄く緩んだ口許。細められた瞳が軽く揺らめいている。
「私、振られた事よりも、その後無視されたり存在をなくされたりする方が辛いと思ってたから…だから、良かった」
こうなって欲しくなかった。自分にとらわれないで欲しかった。だからきつくても、それが相手を傷つけさせると解っていても冷たく接していたと言うのに。「本当良かった…」三度目の呟きにも、結局何も言い返せなかった。「…」対して親しくも無かったが、元クラスメイトの名前を忘れるほど少年は老化していない。しかもそれが一年前の事なら尚更だ。今でもしっかりと出てくる彼女の名前は。名前を呼ぶと、今にも泣き出しそうな表情が少年の目に映る。「ん?」首を傾げる何気ない仕草すら、痛々しく思えた。
咄嗟に言いたいことも言えなくなってしまって、口を噤む。けれどもそうしてたって仕方が無い。気を引き締めて改めての方を向き直って淡々と言葉を紡いでいく。
「…スマンかった。あんときは、自分でもキツイ言い方だったと、思う」
それは彼の本音だ。普段こそそこまで弁舌な方じゃない。寧ろ無口なポジションに居る彼だが、今回ばかりはそれも追いやって、ゆっくりとけれどもきっぱりと慎重に言葉を選んだ。出来るだけきつくないように。今までのスタンスとは違う彼の心情を変えたのは、紛れもなくの影響だろう。
なにやら殊勝な目の前の男に一年間の短い(しかもただの同級生としての)付き合いのだったが、はまだ驚きを隠せなかった。自分が今まで見て来て、そして聞いてきた話とは全然違う彼の態度に、それは驚かざるを得ない。――まるで時が止まったかのような感覚だ。実際は刻一刻と時間は過ぎて行き、あと数分で授業が始まる時間になるのだが。
はいまだ驚きの思考の中、それでも懸命に言葉を紡ごうと口を開いた。
「あ、良いんだよ…もう。振られた事は事実、なんだし。……だけど、もし、もし良かったら、だけど…友達でも――」
「」
言い終わる前にそれを遮ったのは他でもない、少年だった。静かに・・・けれども芯の通った声に、は黙らざる得なかった。沈黙が、場を制する。すると、少年の方がふう、と嘆息を吐くのが良くわかる。それから一呼吸置いて出てきた言葉は、
「スマン。それは無理じゃ。・・・悪いが俺はの期待に応えてやる事は、出来ん」
もう一度、スマン。言って、頭を下げた。「友達でも」その言葉を聞いて、彼は咄嗟にの事を思い浮かべた。もし、この場にが居たならば、「友達くらい良いじゃない」と自分を叱咤するだろうか。泣いたりするんだろうか。思うが、けれども少年は目の前の少女の小さな"望み"を叶える事にはどうしても頷けなかったのだ。"友達"なんて言葉で括ってしまったら、それこそ彼女が前に進めなくなってしまう。縛り付けるような事はどうしても彼には出来なかったのだ。それがたとえ彼女が望んでいる事だったとしても。
二の次を言わさぬ振る舞いに、はただ、呆然と彼を見やる事しか出来なかった。自分にもう言える事は無いのだと、悟ったのだ。
「そ、か」
口から出てきたのは、歯切れの悪い台詞。無理をしている。涙を堪えている。そんな様子がありありと解ったが、今の彼にはどうすることも出来ない。折角突き放したのにココで優しくするのは意味が無いし、築いた物を崩すことになる事を彼は良く理解していたからだ。「スマン」もう一度謝る。銀色の髪の毛が下げた頭と同時にバサリ、と下に垂れ下がり少年の顔を隠した。
「あ、うん。わかった。こっちこそごめん!何か、二度も困らせたみたいで?」
おどけた声が頭の上から聞こえたが、それが無理をしているんだとわかるから顔を上げることは出来なかった。また同様に返す言葉も用意出来ない。それにきっと自身、この場限りの言葉なら、安っぽいうわべだけの台詞なら不必要だと感じているだろう。返事なんて期待していないといった風に、「あ、」と声を漏らす。
「ヤッバイ、そう言えば次数学!担当うるさいからもう行かなきゃ!」
空元気なのは重々承知だ。わざとらしくつけている時計を見やって、慌てた風を装う。勿論頭を下げている少年には見えるはずも無いのだが。「と、言うわけで行くね!」また続いてが喋る。聞こえてきた声と小走りに去る音は同時だった。最後に紡がれた言葉に、勝手ながら、ヅキリ、と胸が痛んだ。
「バイバイ、仁王くん」
色んな想いに、埋もれそうだ。はあ…自身のついたため息が、自分の耳につんざくように響いた。
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