Adagio







おんぶしてもらっているとき、柳生君とくっついてた部分が火傷しそうなほど熱くなって、まるで、自分の身体じゃないみたいだった。


あれから、消毒を終えたは一足先に教室に戻ったヤギュウを思った。「ありがとう」とお礼を述べた時のヤギュウの顔が頭から離れない。…何処か、苦しそうな表情をしていたのだ。ツキン、と胸が痛むのを感じては眉を寄せた。時々、見せる辛そうな表情。何故そんな風な顔をされるのかわからない。メールでは、いつも通りなのに。釈然としない"何か"を銀髪の少年に感じたが、勿論答えは出てこなかった。
そんな時だった。聞こえてきた二度目のチャイムにはビクっと反応をする。思考途中のそれを遮って思うのは、このチャイムが6限を知らせる本鈴だと言う事。処置の早い先生のお陰で、もう怪我の方は止血も済んでいる。サボるわけには行かない。は勢い良く椅子から立ち上がると、書類を書いている保健医にお礼を述べて、同じように勢い良く保健室の扉を開け放つと、急いで駆け出した。走るとまだ足が痛んだが、数学の教師の雷に比べれば大したこと無いと考え直し、続けて走り続けた。






もう誰も居なくなってしまった廊下をは足音を押し殺して進んでいた。もう殆どのクラスが始まっているらしい。教師の勉強を教える声が各教室から零れての耳に届いた。きっとの足の様子を見れば、ちょっとの遅刻くらい許してくれるくらいの懐の深さは持っているはずだ。そう願うしかない。浅い息を吐き出して一人廊下を歩く。
暫く歩いた頃だった。すると、どうやら遅刻者はだけでは無かったらしい。階段の辺りに差し掛かった時、小さな物音が聞こえて視線をそちらに向かわせた時、チラリ、と生徒だろう姿を発見した。しかもそれはどうやら彼女の見知った人物のようで。の心が明るくなる。一人だけの遅刻者ならまだしも仲間が、しかもそれが友達なら心強い。ははやる気持ちを抑え階段付近で見えた黒髪に声を掛けようと近寄った。
―――だが、それは発せられる事無く閉じられた。何か様子がおかしいことに気づいた。小刻みに震えている肩。押し殺した声。…ぼんやりと見つめ、それがある行動だとが気づくのに、そう時間はかからなかった。
泣いている。
どうしようか。は考えた後、


ちゃ、ん…?」


恐る恐る名前を呼んだ。放っておいたほうが良いのだろうか?思わなかったわけじゃなかったが、大切な友達が泣いているのをは黙って見過ごせなかったのだ。気がつけば、呼んでいた。そんな感覚だった。すると呼ばれた本人の肩が小さく上下するのがわかった。それから数秒の後「っ……?」と、確認するように問いかけられて、一瞬どうしようかと立ち止まっていた足をはゆっくりと動かした。


…っ」


瞬間、抱きつかれた。突然の事態にはただを支えることにしか集中出来なかった。倒れそうになる足に力を入れて踏みとどまる。それからはふうと息をつくのも忘れて自身に体をくっつけているを見下ろした。小刻みに震えている。の制服をぎゅうっと強く握り締めているんだろう。その手さえも震えていた。どうしたの?…言いたかったが言えなかった。こんな風になったは見たことが無かったのだ。いつもかっこよくて、グループでも冷静沈着で、大人っぽいにとって、大切な友達と思っているのと同じくらい、強い憧れも持っていた。けれども、今は違う。今の彼女はと変わらない。やっぱりどんなに大人っぽくても、冷静でも強そうに見えても、も一人の女の子なのだ(決して、の事を女の子じゃないと思っていたわけではないが)と同じように泣いたり悲しんだりするだろうに。でも今まではそういう感情があったから直結できなかったのだ。思ったら、今の彼女に「どうしたの?」と言う単語は禁句だと思った。口にしたら余計にこの少女を傷つけてしまうのではないかと思ったら、はそのたった一言が言えなかった。今自分に何が出来るんだろう。考えて出て来た答えは、ただ静かにの背中を擦ってやることだけだった。なんて自分は無力だろうか。黙って背中を擦り続けると、押し殺していた嗚咽が小さく漏れるのがわかった。同時に、の胸に頭を押し当てて、


「――…った」


それは、小さな小さな声。不意に紡がれた台詞。余りにも小さすぎて聞こえなくて、は相手が不快に思わないように、優しく「え?」と言葉を発した。そうすれば、ぐず、と鼻をすする音と共に、少ししわがれた声が今度は先ほどよりも強く吐き出された。


「ダメ、だった」


一体それが何を指しているのかわからなくて。でもやっぱりそれが「何がダメだったの?」と聞ける雰囲気ではなくて、は黙りこくっていると、が続けて喋り始める。その声は痛々しい。


「仁王に、友達でも、って言ったの。でも、ダメだった。私の期待には応えられないって。ごめんって」


泣きじゃくりながらに縋り付く手に力が込められたのが彼女自身解った。けれどもそんなのは今のにはどうでも良いことだ。今はただ、目の前の親友が泣いている理由だけがの頭を混乱させていた。
自身、『仁王』を見たことはない。勿論、喋ったことなんて皆無だ。だから彼がどんな性格なのか、なんて今のには解らない。彼が何を思ってにそう言ったのかは理解出来ない。
けれども、その言葉を聞いた瞬間、ふ、と銀髪の彼の言葉を思い浮かべていた。


『でも、それでもし期待を持たせる事ゆうても、相手を傷つける事になるじゃろ?それならきっぱり断るのもいけんわけじゃないと俺は思う』


彼の言葉を聞くまでは、"仁王"ってなんて酷い人なんだろう。冷たい人だ。と思っていたが、これがに対する仁王なりの、誠意、なのかもしれない。と思い考えた。…それでもやっぱりを泣かせる仁王という少年を心の底から良い人だ。とは思えない。の腕の中で声を押し殺して泣き続けるを見ていると、ぎゅう、と胸が張り裂けそうになることに気づいたときには、もうの瞳から一筋の涙が零れ落ちていた。
ヤギュウの言ったことは最もだと思う。きっと普通ならもそれが誠意だと思うだろう。けれどもやはりそれは知らない人が告白して振られた場合だ。相手が友人ならそう思えない。理屈じゃないのだ。


だって、どれほど勇気がいることか。


友達でも良い。振られた相手にそう告げるのはどれほど勇気が居ることだろうか。自身告白したことも無いのであくまで想像しか出来ない。けれども、絶対それは、凄く凄く勇気が入る事だ。そう易々といえることでは無いのだ。もし、それを軽口に言えるとしたら、それは本気じゃない証拠。それを拒否されたら…凄く、辛い。辛いに決まってるのだ。そんな気持ちを、"仁王"は解るのだろうか。…は唇を噛み締めて思った。
何故、友達でもダメなのだろうか。……考えたけれども、の頭では答えなんて出てこない。
ぼやけた視界から見えた泣いている親友の背中をそっとさすりながら、二人ですすり泣いた。






★★★






「あーあーもう……ごめん」


そ、っと自分の胸からの動く気配に気づき、同時に投げかけられた台詞には「え」と短く声を発した。少し距離を置いて座る(と言ってもすぐ隣に腰掛けたのだが)をじっと見つめる。目元が赤くなっていることに気づいて、の胸がジク、と痛んだ。「もう、大丈夫」紡がれる静かな声は、同じく静粛な廊下に小さく響く。見やればそれは全然大丈夫じゃなく見える。それがの強がりなのだと言うことも解った。「無理しないでね」咄嗟に言いそうになって、それはきっと彼女の求めている言葉じゃないことだと気づき、は一度口をつぐんでから、「そっか。良かった」と笑顔を向けた。そうすればほんの少し驚いた様子の親友の顔が目に映ったが、それは本当に一瞬で、次にぎこちない笑みが向けられたと同時に「ありがと」といつもの声のトーンと調子で返された。時計を見ればあと少しで授業も終わってしまうだろう。は静かに立ち上がるとスカートの汚れをパッパと軽く払い、「さ、顔洗いにいかなきゃ怪しまれるね!」と明るい風に言われる。


「あーでも、泣いたらすっきりした!なんかちょっとかっこ悪いけどね!」


早々と背を向けられても慌てて立ち上がる。そして、…言うべきか言わないべきか悩んだ後、静かに…けれども着実に彼女に聞こえるように声を上げた。


ちゃんはかっこ悪くなんかないよ!…そんな一言で片付けるなんて、ダメだよ。…だって、伝わってきたもん。…ちゃんが仁王くんのこと大好きなんだって気持ち。すごい強く伝わってきたもん。…辛かったら泣けば良いんだよ。愚痴ったって良いんだよ。それは全然かっこ悪いことなんかじゃないよ。誰だって泣きたくなるときなんかあるんだし…あたしはそんなちゃん、可愛いと思ったよ」


言いながら、はまた泣きそうになっていた。背を向けたままのの様子はわからない。今、何を思っているのかなんてには検討も付かなかった。けれども数秒経って、ようやくの方を向いてくれた彼女は、笑顔で。


「…本当、って良い子だよね!今、アンタに話聞いてもらえてよかった!ほら、行くよっ」


それからまたくるりと背を向けられて、は慌てて歩き出す。その時に「本当に、ありがとう」…紡がれたの台詞はに届くことは無かったけれど。










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