Adagio
週に一回だけやってくるこの時間がは楽しみだった。特別楽しい話をする訳でもない。するのは他愛もない話ばかりだ。また二人の間に沈黙が一切無い訳ではないのだが、それでもこの空間がは好きだった。大笑いするネタがあるわけでもないのだけれど、は自分がありのままで居られるこの時間が何より幸せだった。落ち着ける場所、なのだろう。
銀髪の少年はあまり自分の事を話さない主義らしく、出会ってから数回経つが、あまりヤギュウ自身の事は知らなかった。知っていると言えば名前(しかも苗字)と学年、クラス…数学が得意だという事。そして、見た目とは違って優しいと言う事。
★★★
ヤギュウは時折と話しているとき、とても複雑そうな、困ったような…罪悪感のあるような表情を浮かべる。何かを言いたそうな、けれどもそれを言えない、と言った風な表情をされていることには気づいていた。
「ね、そう言えば柳生君は何か部活に入っているの?」
「…なんで?」
例えば。ほら、まただ。言い辛そうな表情を一瞬だけ浮かべて、ゆっくりとを見つめて静かに紡いだ言葉。それが少しの拒絶を含んでいる事には気づいて慌てて手振りを使って言葉の補足をした。
「あ、ほら。この曜日以外会えないって事は部活入ってるのかな、ってそう思って」
には珍しく早々に言葉を紡ぐと、ヤギュウはほんの少しポカン、とした後、クックと笑い始める。そんな彼の様子に今度はがポカンとする番だった。「ど、どうしたの?」と口許を押さえて笑っている銀髪の少年に問いかけると、互いの目が合う。するとヤギュウが一度含んだような笑みを浮かべ
「はそんなに俺に逢いたいんか?」
「へっ」
「そんな風に聞こえたけ。週一じゃ足りんって」
切れ長の瞳が意地悪そうにを見つめたので、見つめられた当人は鼓動が早く鳴っていくのを感じた。言われて、気づいたのだ。確かに、彼の言うとおりだ。週一では足りないと、心のどこかで思っている。本当はもっと『ヤギュウ』の事を知りたいと思っていることに、気づいてしまったのだ。こんなに一人の人の事を気にかけるのはにとって初めてだった。ヤギュウと名乗る男が、ミステリアスだという事も関係しているのかもしれないが、此処最近のはいつもどこかしらヤギュウの事を考えていた。
この感情を、は知っている。
急激にやってくる、頬の赤み。気づいたら、もっとその想いが強くなる。
「?」
目の前の男は面白いものを見つけたとでも言った風に、いつもとは違い年相応な表情でを見つめている。
「ず、るいよ、柳生くん」
頬の赤みを隠すように俯いて呟いた言葉。ドキドキと静まらない心臓の音。風邪を引いた時のように全身の体温がグウンと上昇する。この感情は―――恋だ。出会って少ししか経っていないのに、はこの目の前の男を好きになってしまっていた。気づくと可笑しなもので、今まで気づかなかった分のシワ寄せみたいに、どんどん『好き』の気持ちが溢れ出てくる。
俯いてしまったを心配するような声が降ってくる。ゆっくりと顔を見上げればさっきの意地悪そうな表情ではない彼がの目に映った。「実際、どうなん?」と答えを促されて、ドクン、との鼓動が跳ね上がった。
「そんな、の……逢いたいに、決まってるのに」
一呼吸置いて、小さく返した答え。多分今、凄く間抜けな顔をしているのに違いないとは思った。実際、気の抜けたコーラのような顔をしている。子どものように口を尖らせて眉を寄せると小さく眉間に皺が出来ている。今にも泣き出しそうな、そんな顔。ヤギュウはそんな彼女に苦笑して、―――ポン、と自身の掌をの頭に乗せた。銀髪が揺れる。カラーリングしていて痛んでる筈なのに、その髪は綺麗だ。そよそよと吹く風に乗って、軽やかに動く髪の毛をがぼんやりと見つめていると、
「冬休み、時間作るけ、会おう」
まるで子どもに言い聞かせるような、そんな言い方だったが、いつも以上に優しく聞こえたのはきっとの気のせいではない。現に、瞳が優しく感じられた。切れ長の瞳はどこか鋭さがあるはずなのに、今は一切無く、丸みを帯びている気さえする。そんな表情をされたら、更に顔が赤くなってしまうんじゃないかとは思ったが、それ以上にヤギュウの誘いが嬉しかった。
「良い、の?」
苦悩の表情のまま言い返せばヤギュウは一度目を丸くさせたのち、小さく吹いた。クックと押し殺したような笑い声に、長い骨ばった指先で口許を覆う仕草は多分彼が笑うときの癖なのだろう。ひとしきり(と言ってもそんなに長い時間ではない。ほんの数秒だ)笑った後、ヤギュウは小首を傾げると、じっとの瞳を見つめて
「が良い、言うなら俺は逢いたいんやけど?」
「どうする?」と続いた台詞に、答えなんて決まっている。はすぐさまに「あ…逢いたい」と言葉を紡ぐと、ヤギュウの顔を見上げた。こんなに至近距離でお互い喋るのは初めてかもしれないと今更ながらに気づいて、自分の鼓動が一段と煩くなる。相手に聞こえてしまったらどうしようかと実際無いだろうが心配になってしまうほど、今のの心拍数は偉く上がってしまっていた。
無意識に更に眉間に皺が寄る。
「コラ。折角なんじゃからもっと嬉しそうにしんしゃい」
その表情がヤギュウにとって納得いかなかったのだろう。眉間の皺を伸ばすようにヤギュウの人差し指が触れた。突然の事態に「ひあ!」と間抜けな声を上げると、は驚きのあまり後ろにひっくり返る。あ、っと思ったときには視界が上を向いていてこのままでは地面に後頭部を直撃―――
「っぶね」
「!」
すると言う間際に伸ばされた腕。背中に回った温度に、は息を呑んだ。視界が覆われる。それがヤギュウのブレザーだと気づいて、息が詰まりそうだ。それからゆっくりと上体を起こされる。心臓が飛び出そうな思いと言うものを、は初めて知ったような気がした。
「あ、りがとう」
「…ん」
お礼は小さかったがどうやらヤギュウに届いたようである。いつもの短い言葉が返って来る。けれども、いつものようには笑顔になれそうに無かった。いつも楽しみにしていた放課後のお菓子パーティ。だけれど今日はいつもとは違った空気が流れていた。
それでも、居心地が悪くなるような、嫌な空気では無かったのだけれど。
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