ずっと手の届かない雲のように。
 ずっと手の届かない月のように。

 きっと、あなたは手を離したら、去ってしまう。
 それは、まあるいまあるい風船のよう。



君を想うから




 「あとは、日誌だけ」

 今日は、日直だった。あたしは教室に一人、隅っこの自分の席に座って、日誌を書いていた。本当は、日直って言うのは二人なんだけど、もう一人の男子は、用事があるとかで帰ってしまった。……いつもそういって帰ってしまうから、多分、サボリだろうと思う。それでもあたしが何も言わないのは、臆病者だから。それに、一人のほうが、気が楽だから。………まあ、そんなこんなで、あたしは今日も日誌を書いていた。静まり返った教室で、ペンを走らせる音だけが響く。あたしは、日誌をつらつらと書いていた手を止めた。ふう、とため息をついて、肩を叩く。下を向いた体勢というのは、やっぱりキツイものがあると思う。あたしは、そんなことを考えながら、今度は腕を前に伸ばした。んーと声を出すと、なんだかスッキリするのは、あたしだけだろうか?

 「今日の欠席者は……誰もいないよね」

 ポツリと、呟いてみる。空しくあたしの声が室内に響く。日中は、騒がしいこの教室も、放課後になれば無人で、無機質なものに変わる。だから、耳を澄ませば、外の方から掛け声が聞こえる。運動部が張り切ってるってことがわかる。この時間が、結構好きだったりするのだ。あたしは、窓から外を眺める。
ここは、あたしの特等席。一番後ろの窓側とは、実にラッキーな場所だと思う。ここから見える、景色が好きだ。なぜなら、好きな人が見えるから。ここはテニスコートが見える、ベストポジションだった。

 「……アレ……いない……?」

 しかし、いつものように見てみると、おかしな点に気づく。いつもはいるはずの彼の姿が見えなくて、あたしの心は沈んだ。あたしの唯一の楽しみの時間だったために、気分はなかなか上がりそうに無い。あたしははあ、とため息をつくと、先ほどまで書いていた日誌に目を落とした。それから、今日一日の時間割を書く。

 「一時間目は……数学、二時間目は……体育、三時間目は……えっと、なんだったっけ?」
 「理科」
 「そうそう、理科……」

 何気なく答えて、あたしはばっと勢い良く顔を上げた。見ると、さっきまで誰もいなかった前の席に、人がいる。しかも、それはさっきあたしがテニスコートを見て探していた人物。驚かないわけには行かない。パクパクと声にならない声を出した。それから、ペンを落とす。ペンは机の上をコロコロと転がって……床に落ちた。カシャンと音がする。すると、彼は、あーあ、と声を漏らしながら、椅子から少し腰を上げて、あたしのペンを取ってくれた。

 「ほい」
 「あ、ああああ、有難う、ございます……!」

 声を無理やりに出したために、噛むわ、裏返るわで、変だった。差し出されたあたしのペンを素早く受け取る。その際に、彼と指先が触れて、心臓が高鳴る。それを悟られないように、すぐに目線を下に落とすと、時間割の記入欄に、三時間目の授業だった、理科という文字を書こうとした。

 「……さっき落ちた際に、芯が折れとるんじゃ……」
 「あ、ほ、本当だ」

 どうりで、いくら書いても書けないはずだ。彼に教えてもらって、あたしは恥ずかしさと戦いながら、カチカチとシャーペンの上の部分を親指で押す。ゆっくりと芯が出てきた。それを確認すると、あたしはまた理科、と日誌に書いた。

 「次は、音楽」
 「お、音楽ですね……!」

 書けると、彼は時間割を見ながらなのか、教えてくれた。あたしはドキドキしながら、言われた教科を書く。あと、担当の先生の名前もだ。彼が日誌を見ていると思うと、出来るだけ綺麗に書かなければ!と意気込んでしまって、変に遅くなってしまう。

 「の字は、綺麗だのう」
 「そ、そうかな……」

 すると、誉められた。凄く嬉しくて、思わず顔が緩んでしまう。でもそこはなんとか持ち直して、なんでもない風に、言った。頑張って書いた甲斐がある。あたしは続いて時間割を書いたあと、今日の日直から一言書きに入った。いつも、ここで悩む。一体何を書けばいいのだろうと。

 「はあ……」
 「なんじゃ?」

 いきなりため息をついたあたしを、不思議に思ったらしかった。端麗な顔を少し斜めに傾ける。そんな仕草一つ一つに、あたしは釘付けになってしまうことを、彼は知らない。あたしは冷静になれ!と心の中で叫んで、至極素っ気無く返した。

 「えっと、日誌の感想が……、難しいなって」

 でも、やっぱり声が少し震えた気がした。それでも彼は気づかなかったのか、はたまた気づいたけど何も思わなかったのか……、つっこまないでいてくれた。いうと、そうじゃな〜、なんて、返してくれる。彼も思っていたみたいだ。

 「あ、あの……仁王君?」
 「んあ?」

 おずおずと名前を呼んでみると、仁王君は日誌から目を離し、こっちを見ていた。また、顔が紅潮していく。あたしはぎゅっとペンを力強く握ると、時計の方に目を向けた。仁王君の顔を見るのは、無理そうだったから。「ぶ、部活には、行かなくて、いいの?」と、途切れ途切れになりながらも、勇気を振り絞っていってみれば、仁王君は、けらけらと笑った。?と仁王君を見る。

 「サボリ」

 それから、さも当たり前といった様子で、ケロリと言った。その言葉にあたしは大声を出す。だって、サボリ……、なんて不可能に近いだろう。副部長である真田君が許すはずない。それに、もしも何も言っていなかったら、次の日真田君に何こそ言われるか……。あたしは真田君にとっても失礼だと思いながらも、目の前でのん気に笑っている想い人の心配をしていた。

 「そ、そんな……怒られちゃうよ?」
 「ん〜……まあ、どうにかなるじゃろ」

 自分なりに、警告したつもりだった。だけど、仁王君はそれをわかっていないのか、けろっと返す。そういわれてしまっては、強く出れない。「それにな」俯いたあたしの耳に、仁王君の声が届く。今度の言葉は、笑いが含まれていないように感じた。あたしはゆっくりと顔を上げる。

 「一人に日直させるわけにはいかんぜよ?」

 そう、言った。ここで初めてあたしは彼の気遣いに気づいた。と、同時にとても嬉しくなる。
 あたしは思わず笑顔になって、ありがとう、ってお礼を言った。すると、仁王君は驚いたように目をパチクリさせる。

 「俺に向かって、が笑ったところ、初めて見たわ」
 「えっ?」

 今度はあたしが目をパチクリさせた。当たり前と言ったら、当たり前のことだ。だって、あたしと仁王君は自慢じゃないが、話したことがあるのは、本当に数回。片手で数えられるくらいかもしれない。しかも、二人きりで話すなんて、コレが初めてだ。

 「まあ、なかなか話す機会がなかったしな」
 「うん」

 仁王君はくしゃくしゃと後頭部を掻く。
 あたしはそれを一瞥してから、また日誌書きに戻った。すると、仁王君がまた口を開いた。

 「の名前、ってこう書くんか」

 その言葉にあたしは驚く。仁王君にとっては何気ない一言だったかもしれないけど、嬉しかったのだ。名前を知ってくれていたことが。あたしは何だか照れくさくなって、どもりながらコクンと頷くと、ペンを持ち直して、書き出す。手が震えていた。でも、次の仁王君の一言に、せっかく握ったペンをまた落としてしまう。

 「かわええ名前じゃな。これからって呼ぼうかのう」

 顔が真っ赤になって、言いたい言葉が思いつかなくて、パクパクとまるで金魚のような動きをする。そしたら仁王君は笑った。その笑顔が何だか優しく感じられたのは、あたしの気のせいだろうか?放課後の教室で、いつも一人だった日直。何気なく過ぎていっていた、一日。いつも遠くに感じられて、絶対に届くことがなかった人だけど、今日は、近くに感じられた。



 日付は、十二月四日。
 後で知ったことだけれど、その日は仁王君の誕生日だったらしい。





 ― Fin





2004/12/04