音楽は、私の心そのものだと、思う。
涙、離
―ナミダ、チル―
私は、音楽室が好きだった。
少し広めの四角い部屋で、週二回ある音楽の授業もだが、何より、放課後の音楽室が好きだった。音楽教師との約束で毎週木曜日にだけ貸してもらえる音楽室の鍵。それを受け取り、音楽室に一人、ピアノを弾くのが私の密かな楽しみだった。何故、木曜だけなのかと言えば、毎週木曜日が吹奏楽部の休みの日だから。たった週に一日だけだったが、私はそれでも満足だった。
そして今日は待ちに待った木曜日。
いつもの如く音楽教師に鍵を貰うと、嬉々して音楽室のドアを空けた。誰もいない教室は、しんとしていて、少しひんやりとした空気だ。ぴり、とする空気がまた、たまらなく心地よい。音楽室独特の雰囲気、と言うのだろうか。私は後ろ手でドアをぴしゃりと閉めると、左隅にあるピアノを見つめた。置いてあるのは、綺麗なグランドピアノ。グランドピアノはそこらの電子ピアノなんかと全然違う。見かけやオーラ、そして音が、だ。いつ見ても立派だと、感嘆の息が漏れる。それからそこに向かって歩みを進め、目の前にやってきたところでストン、と椅子に腰掛ける。少し重たい黒い蓋をいつもと同じように両手で開けると、そこにあるのは白と黒の鍵盤。
思わず笑みがこぼれる。
そ…と自身の指を鍵盤に乗せると、ひんやりとした感覚が私の指に伝わった。この瞬間が、好きだ。それからふう、と深呼吸を一度。ピアノを弾き始める前の、恒例。瞳を閉じて、精神統一…なわけではないが一度頭の中を空っぽにして演奏を始めるのだ。そうすることで、リラックスすることが出来るし、何より自分自身楽しくピアノが出来る。瞑っていた瞼を開けると、綺麗に手入れのされたピアノが目の前に現れる。それからはまたいつもと同じように弾くだけだ。何を弾こう、なんて考えない。ただ、思いのまま弾くだけ。音としては未熟だろうが、別に演奏会に出すものでも、部活の一環のわけでもないから、気にしない。音が奏でられて、それらしいメロディーになればいい、私はそう思う。
途中からはもうあまり意識はしない。ただ、指が動くまま、メロディーが流れるだけだ。ゆっくりとしたテンポなのは、この音楽に合いそうだからという単純な理由。静かなそれはどこか私の心情に似ているかもしれない。ピアノは人の心を映す。前に通っていたピアノ教室の先生が、そんなことを言っていた気がする。まさにその通りだと思った。いくら深呼吸をしても、そう簡単に変わらない。だからきっと、ピアノは面白いんだと思う。弾く人、その胸中により明るくも、暗くもなるそれはまさに芸術だ。例えそれが下手くそだったとしても、それでも自分にしか出せない音なのだから、いいと思う。
今の私の心境はどうなのだろうか。多分、とても落ち着いているに違いない。久々の穏やかな一日だった。何に邪魔されるわけでもない日常は滅多に味わえるものではないから、今日の私はとても気分が穏やかだったんだろう。目を瞑り、音階を整える。先ほど一回音程を間違えてしまったが、それもご愛嬌。一度や二度の違いなんて可愛いものだ。
私はふ、と外を見下ろした。…此処からは、外の景色が良く見えたのだ。下に見えるのは部活動を頑張っている生徒達が主。その中でも一際目を惹くのは、うちの看板である男子テニス部、だろう。周りには大してテニスには関心のない女子生徒が集まっていて、そこだけ異様な空気を纏っている。
自分はミーハーなほうじゃないから、それがまた酷く嫌だった。
別に本気で恋をしているなら良いと思うし、静かに見学をしているなら文句は言わない。だけど、実際はどうだろうか。きゃあきゃあと騒いで、上っ面などこぞのアイドルの追っかけのように彼らを追いまわしている。
私自身テニスはやったことないし、寧ろ運動は苦手なほうだから彼らの本当の気持ちは理解できない。けど同じ、一生懸命何かを取り組む者から見て言わせてもらうとするなら、それは迷惑にしかならないと、思う。(中にはきゃーきゃー言われて喜ぶ人等はいるけどね)
私なら、一生懸命好きなことをしている時――例えば今こうやってピアノを演奏してるとか――なんか、絶対騒がれたくない。そんな軽い気持ちで聞いて欲しくないと思うからだ。
だから、男子テニス部の人達は苦手だった。彼らを取り巻く環境も(あ、でも柳くんとか柳生くんや真田くんは結構人として好きだ)きっと、こんなことを周りの女の子達に言ったら、変な目で見られるんだろう。中には嫌悪の目で見る人もいるだろう。
だって、男子テニス部と言えば、良くは知らないがファンクラブまであるという、うちの人気クラブだからだ。
私がこんなことを思っているなんてきっと誰も知る由もない。また、言う必要もないと思った。わざわざ自分を追い込むようなことをする必要は無い。安易な橋が目の前にあるのにむざむざ危険な橋を渡るほど、私は莫迦じゃない。なのでテニス部が載っていると言われる校内新聞があれば、気になる振りをしてみんなと一緒に覗き込んだりもするし、カッコイイよね、と同意を求められれば共感する。一度テニス部を見に行こうと誘われたときもあり、とりあえずは形だけ参加した。(あそこまで白熱できなかったけども)でもそれは完璧な付き合いだ。
「………あっ」
そこまで考えて、私ははっと我に返った。思わぬ大失敗。弾き間違いも良いところだ。折角波に乗ってきた演奏は、小さなことで終わりを告げた。途切れたメロディーに、私の手も勿論止まって、白い鍵盤に乗っている。
ああ、もう
きっと、知らず知らすのうちに、私の心は酷く汚れてしまっていたんだろう。それが曲にも伝わり、酷い演奏になった。私はその続きをどうしても弾く気にはなれず、ため息と共に、ピアノの蓋を閉めた。さっきまで穏やかで、晴れ晴れとした気持ちだったにも関わらず、一気に急降下だ。
折角の週に一回のピアノ。…けども今日はなんかダメだ。私は隣に置いた鞄に手をかけ、帰ろうとした。
「もう、終わりなんか?」
すると、少し離れたところで聞こえた、声。何度か聞いたことのあるそれは、独特な方言交じり。噂をすると、とでも言うのだろうか。私は気だるそうに声のしたほうに顔を向けた。すると、私の思い描いていた人物と、そこにいる人物は見事重なり合ったわけだ。
仁王雅治。
私の苦手なテニス部の中でも人気の高い男だ。何処出身かという質問には頑なに心を閉ざしてしまっている、と聞いたことがある。そんなミステリアスなところや、詐欺師、と言われる程の話術に惹かれる女の子は少なくないという。…私は、この仁王雅治という男がテニス部の中で一番苦手で、嫌いだった。
「… さん、じゃろ?」
突然彼の口から紡がれた自分の名前に少なからず、驚いた。まさか、彼が私なんぞの名前を知っているなんて思いもしなかったからだ。何せうちの学校はそれなりにデカイ。同じ学年の子全員言えといわれても、私は言えないだろう。一度同じクラスになったとか生徒会役員だとか、何かの部活で活躍した―例えば目の前の仁王雅治とかね―人なら、自然に覚えるだろうが。はっきり言って自分は何の才能も無く、目立つタイプではないから、とても吃驚したのだ。増してや、彼と同じクラスなんかになったことさえもない。喋ったのも今日が初めてのはずだ。それなのに、彼の口から出たのは紛れもなく自分の名前。
「な、んで」
驚きを隠しつつ、仁王雅治を見やる。仁王雅治はふ、と不適に笑うと―これが世に聞く魔性の笑顔なんだろうか―そこから一歩、音楽室に足を踏み入れた。それから私の前までやってくると、ポン、とピアノの上に手を置く。それだけの仕草なのに何だか不快な思いになった。きっと、今、私の顔は酷く歪んでいるんだと思う。それでも仁王雅治の表情も、ピアノの上に置かれた掌も変化は見せなかった。ただ、ゆっくりと閉じられた口が上下に開く。
「そう、睨みなさんな」
苦笑交じりの仁王雅治の声色はどこか楽しげで、ますます眉が寄るのがわかった。私は訝しんだままの表情を変えることは出来ず、俯いて、仁王雅治を視界に入れないようにした。真っ黒に輝くピアノが視界に映って、ちょっとだけ、気持ちが和らぐ。
「…なんの、用ですか」
彼はさっきの「なんで」と言う質問は答える気がないらしい。それならそれでもう構わないと思い、あえてその話題を繰り返し訊くことはせず、新しい疑問を口にした。また、答えが返ってくるなんて思わなかったけど。…用が無いなら早く出て行ってほしいと思ったから、暫くしても答えが返ってこないようなら、無理にでも出て行ってもらおうと思った。―――または、私が出て行く、か…だ。(どうせさっきもうやめようかって思ってたところだったし)そう思っていると、仁王雅治の口角が上に少し上がるのがわかった。
「いつも、聞こえとるピアノの音の正体が気になっての、探りにきたわけじゃ」
何が面白いのか、クックと笑うこの男。仁王雅治の一挙一動全てが私の神経を逆撫でした。イライラ、する。なんでこんなにもイライラするのかわからなかったけれど、とにかくムシャクシャした。このまま一緒に居たら暴言を吐いてしまいそうになるくらいムカムカして。ああ、駄目だって思った私は、近くにおいた鞄を引っつかんで、そのまま出口に向かって歩き出した。
「そう。だったらもう用済みですよね。私、もう帰りますんで」
言いながら決して仁王雅治に視線を向けず歩いた。そのまま仁王雅治の隣を通り過ぎて出るつもりだった。けれども。
「おっと」
私の行動は、仁王雅治が発したその言葉と共に遮られることになった。がしっと掴まれた腕は思いのほか強く掴まれているのか、痛くは無いが振りほどけなかった。そのため、私の歩みは止まってしまい、出口後一歩と言うところで止まってしまう。キっと睨むと、コイツは「おおこわ」なんて言う始末。…本当は全然怖くもなんとも無いくせに。私は自分の腕を掴んでいる手を一瞥して、もう一度彼を見上げた。睨んでやるけども、やっぱり恰好がつかない。
「…放して。私帰るんだから」
冷たく言い放つけども、そんなんで怯む相手ではないのは重々承知。その証拠に、ほら。上がったままの口角は、一向に下がることを知らない。本当にむかつく男だと思う。(なんでこんなのがモテるのか甚だ可笑しいと思う)無理やりにでも掴まれた腕を振りほどこうとしてみるものの、無駄に終わった。やっぱりビクとも動かない。こういうとき、女って損だよなぁと思ったり。
「放して」
もう一度、今度はちょっと強めの口調で言葉を発す。それでもやっぱり離れはしなかった。だんだんとイライラが高まっていくのがわかって、眉根に寄った皺は戻らない。もう、コイツの、仁王雅治の顔なんて見たくないと言うのに。なんで、放っておいてくれないのか。私はただ、穏便に過ごしたいだけなのに。
仁王雅治なんか、嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ。
「…?」
少し、驚いたような声が、仁王雅治の口から出てきた。顔を見上げれば、ほんの少しではあるけど、驚いているようだった。その理由を…私は知っている。ポタ、と私の瞳から暖かなそれが零れて、頬を滑るように落ちた。…涙だ。気づいたときには止まらなかった。ぐし、と制服の裾で拭ってみるものの、何故か止まってはくれなかった。ああ、もう、早く離れたい。
「…放して!私は、アンタが嫌いなの!」
そんな台詞、仁王雅治を傷つけるってわかっていても止められなかった。叫んだ言葉は室内はおろか廊下にも響き渡ってしまっていた。まだ数人は残っているであろう校内で思わず言ってしまった失言に口を噤む。その中でも何が幸いって言えば、彼の名前を口にしていないことだろう。もし、彼の名前なんか口にしようものなら、きっと私は明日から皆に冷えた目で見られること間違いなしだろう。最悪な考えを打ち消すかのように一度瞳を閉じる。そのときにまた、目の奥に溜まっていた涙が零れ落ちるのがわかった。こんな奴の前でなんか泣きたく無いというのに。
何が悲しかったわけじゃない。何が辛かったわけじゃない。それなのに、どうして涙が溢れて止まらないんだろう。それでも絶対に声だけは出したくなかったから必死で口を閉じて耐える。少しでも口を開いたら嗚咽が出て止まらなくなりそうだったからだ。それでも、限界と言うのがあるもので、そろそろ嗚咽が口からついて出るのも時間の問題だ。それだけは絶対に嫌だったから、まだつかまれたままの腕を必死で振り回そうとする。けど、やっぱりビクともしてくれはしなくて…。
「っ!」
瞬間、目元に大きな手のひらが降ってきた。私よりも大きな骨ばった指が頬を撫でる。声を出して静止しようかと思ったけど、結局私の口から出てきたのは嗚咽だけだった。っく、とかみ殺すように小さく落とせば、溢れ出てくる涙を何度も何度もその手が拭う。
「…すまんのう」
聞こえたのは小さな謝罪。ぼやけた視界の中に仁王雅治はいた。その表情を確認することは私には出来なかったけど、ツクン、と胸が痛くなるのがわかった。そして、言ってしまった酷い一言の重みにも気づいて、私はハ、と息を呑む。
「アンタが嫌いなの!」―――それは紛れも無い本心だったけれども、もし、面と向かって言われてしまったらどうだろう。自分に置き換えれば、酷い一言だ。この言葉に傷つかない相手なんて、いるわけがないのに。平気そうにしてたって、絶対誰だって悲しくなるに決まってるのに。
涙を拭いてくれる仁王雅治の手は止まらない。ようやく冷静になれたときに、私の口からは小さな謝罪が漏れた。
「違、ごめ…私、なの」
上手く言葉が出せなくて、この気持ちをどう伝えればいいのか、術を知らなくて、顔を隠すように手の甲で右目を隠す。それから俯き加減で頭を数度横に振ると、私を呼ぶ仁王雅治の声が聞こえた。「?」と呼ばれたときに、ピク、と反応するのは、その声が変わらずおどけたような声だったからなのか。
それからポン、と頭に振ってきたそれが仁王雅治の手だということに気づいて、更に涙が止まらない。
仁王雅治のことは嫌いだ。苦手で、平気で人を騙すし、本当のように嘘をつく。そんなことを噂で聞いて以来、自分とはソリが合わないだろうとずっと思っていた。出来れば一生近づきたくはないなとも思っていた。だって、明らかに私とは性格が違う。合い交えないタイプだと自負していた。だけど、どうしてだろう。
「…泣きなさんな」
どうして、さっきみたいに振りほどけないんだろう。嫌だって言って、触るなって言って拒絶したいのに、出来なくなってしまったのは、私が嫌いの一言を気にしているからなのか。仁王雅治自体には何も変わった様子はなく、ただ優しく私の頭を撫でるだけだ。
「…ど、して」
嫌いってはっきり言った女に、どうして此処まで優しく出来るのか。コレも嘘?偽りなんだろうか?そう思うと心が痛くなる。きゅう、と胸が狭くなる。なんで、どうして。疑問ばかりが飛び交ってどうしようもない。答えなんて教えてくれない。そしてどうして私は近くにいたくないのに、一刻も此処から出たいのに、どうして彼の傍を離れたくないと思ってしまうんだろう。この手が離れて欲しくないと、願ってしまうんだろう。
「どうして、とは?」
「なんで、私に優しくするの」
温かな体温に、身をゆだねそうになる。
「解らんか?」
薄い唇から紡がれるそれ。口角が上がって笑みを作る口。フ、っと不敵に笑っている仁王雅治から逃げ出したいのに動けない。まるで、金縛りにあったかのようで。すると十センチ以上も違うであろう身長差が、すっと縮まるのが解った。仁王雅治がしゃがんだのだとすぐに気づいた後には、ばっちりと視線がかち合って…逸らせない。そのまま見つめ合う形になって数秒が経った。
「に、お」
「どうしてかなんて、そんなのが好きだからに決まっとるだろ」
ふわりと香るのは香水?次の瞬間に、私の涙を拭うように、彼の唇が私の瞼に落ちた。
「ピアノの主を探りに来たって言うのは口実で―――ただ、お前さんに近づきたかっただけじゃ。本当は、ピアノを弾いてる奴なんて、とっくに知っとった。知ってた上で、会いにきたんよ。―――に」
きっと、今ピアノを弾いたら、私の曲は自然とバラードになってしまうんだろう。
好きと嫌いは紙一重、なのかもしれない。
― Fin
あとがき>>放置しすぎてた作品。2006/09/22って書いてあった、よ!続きを書いてみたけれど、結局ピアノの意味はあったのか、と聞かれれば無いときっぱりと答えられる。そんな作品(…)
2007/04/15