「ただいま」
聞こえて来た声は、とても聞き覚えのある声で。でも絶対にこんなところで聞くような声じゃないはず。だけど、それが別人だなんて思えなくて、私は今の状況を把握できなかった。だって、まさか…。彼がいるわけがない。バっと由美子さんを見れば、由美子さんは辛らつな顔をしていて。ねえ、どうして笑ってくれないんですか?…そうして、今私の中で由美子さんの言っていた言葉が反響していた。
「謝らなければならないことがあるの」
…ねえ、由美子さん、嘘だよね?謝らなければならないことがもし私の考えどおりのことならば、私は、どうすれば良いんだろう?だって、由美子さんは知ってたってことになる。
片道切符の終着点
「由美、子…さん?」
「ちゃん私の、名前はね」
今まで聞いてなかった、苗字。別に話をする中で苗字を必要とすることなどなかったからだ。ドクン。と心臓が大きく鳴ったのが解った。血液が沸騰する、みたいな感じ。ざわざわと騒ぎ出す胸に手をやって、由美子さんの顔を見た。薄い綺麗なルージュをひいた唇が、ゆっくりと動く。聞きたく、なかった。だって。私にとって由美子さんはこのことに関して唯一信じられる人で、私の中の救世主で。憧れの人で…。だから、スローに動いた唇の動きを見て、発せられる言葉を聞いて、私は愕然とした。
「不二由美子」
確かに、そう言ったのだ。ああ、だからだ。初めて由美子さんの笑顔を見たとき、どこか不二君に近いものを感じた。笑った顔が、そっくりなのだ。勿論男と女の違いはあるものの、雰囲気が、醸し出すそれがそっくりなのだ。何故、気づかなかったんだろう。
多分、私の声は震えていたに違いない。「弟さんの、名前は?」と恐る恐る聞けば、由美子さんは薄ら笑みを浮かべて――でもその笑みはいつものたおやかさはなく、どちらかと言えば儚さみたいなのが強かった――名前を告げる。「周助」とはっきりと。……私の好きな人と、一致するのだ。無意識のうちに口元を手で覆う。今にも泣き出しそうだった。だって、目の前にいる信用した人は不二君のお姉さんだったわけで。知らずだったとしても全部知られてしまったわけで。―――衝撃が、走った。
「ちゃん、聞いて」
ガタ、と机に手を突いて立ち上がろうとした瞬間、聞こえた制止する声と、腕に触れる由美子さんの手。…拒否は出来なかった。だって、由美子さんの顔を見たら出来るわけがないのだ。きゅっと口を一に結って見上げてくる瞳が、ゆらゆらと震えているのがわかったのだから。多分、凄く由美子さんも悩んだに違いない。だって、私は彼の名前を…不二君の名前を相談中ところどころに言ってしまっていたのだから。私の好きな人が、自分の弟だって知ってしまっていて、悩んでいたに違いない。
ぐっと掴まれた掌は冷たかった。整えられた爪が目に入る。マニキュアで塗られたそれは綺麗に飾られていて目を奪われそうになるけど、今はそんな気になれない。ちゃん、と呼ばれるがまま見つめれば、由美子さんが座ってと私を促した。中腰だった私は、その場にまた座り込む。……話されるばき言葉は、何かわかっているつもりだ。きっと、由美子さんは不二君の好きな人を知っているに違いない。今までは私の応援をしてくれていたけれど、さすがにもう出来ないと思ったんだろう。だって、「弟」と言ったときの由美子さんの顔は優しかったから。…弟の気持ちのほうが大事に決まってる。
「あのね、私」
そう紡がれる言葉は酷く冷めついているように聞こえた。内容が内容なだけに明るくなんて行かないんだろう。そんな風に悩ませているのが自分なのだと解ったら、凄く辛くなった。だから、気がつけば私は由美子さんの言葉を遮っていたのだ。
「由美子さん、私なら謝られることなんてないです。あの、私、わかってますから。…だからそう辛そうにしないでください。私なら良いんです、慣れてますから」
そう、フラれることなどどうってことない。好きだけど、不二君のことが好きだけど迷惑にしかならないのなら諦められる。良く「好きな人が幸せなら自分も幸せ」とか言う綺麗事を言う人がいるけれど、今の私の心境はそれに似ている。由美子さんのように綺麗にはいかない笑みを浮かべる。多分、今までで一番上手に笑えてるはず。私は由美子さんの手をすっと離して立ち上がった。
「…ラズベリーパイ、ご馳走様でした。それと、今まで有難う御座いました!」
そう言って、今度は由美子さんの制止も聞かず部屋を出た。だって、聞く勇気なんて持てない。逃げることは弱いことかもしれない。だけどさ、負け犬の私にはお似合いなんだよ。振り返ることをせずとにかく玄関までを足早に歩いた。もうすぐ出口だ。色々とごちゃごちゃになった頭でもそれだけは明確にわかって、私は更に足を進める。すると、掛かる声。
「さん?」
あとちょっと。あともう少しと言うところで、私を呼ぶ声にドキリとした。その声は紛れもなく不二君の声だったからだ。もう一度私を呼んだ不二君が、こっちに向かってくるのがわかる。どうしよう。どうしようといよいよもって頭が破裂しそうだ。でも、こんな状況で不二君の顔なんて見れない。いつも以上にブサイクであろう顔。こんなの見られたくない。会話できる状態でも無い。そう思ったら、私は不二君の声さえも無視して、手にかけたドアノブを回した。カチャと自分の声は多分一緒だった。
「お邪魔しました」
パタンと閉まったドア。え、と不二君の声が聞こえたような気がするけれど、私は無視して走り出した。…いつもと同じ優しい声。男の子の中で唯一私を気にかけてくれる人。でも、そんなの皆になんだ。ちゃんと彼には好きな人がいる。だから、だから期待なんかしちゃいけないのだ。
間抜け、不細工、自意識過剰。
「あら、そんなに自分を卑下しちゃダメよ?」
思った後、由美子さんに言われた言葉が脳裏を掠った。だけど、由美子さん、私は少し好い気になりすぎてたようです。こんな奴、どれだけ罵られたって当たり前なんですよ。心の中でそう言って、家に向かった。
アノ後、どうやって家に帰って、いつ部屋に入ったのか覚えていない。ただ、気がつけば私はベッドに腰掛けて、鞄を抱きしめていた。何時間そうしていたのかもわからない。はっと気づいたのは母親の「ご飯!」の言葉。我に返って鞄を自分の横に置いた私。窓の外を見れば、真っ暗に変わっていて、ああ、もう夜なんだ。と気づく。もう一度「ごーはーん!」と母親に促され、私は重い足取りで下に降りた。…食欲なんて全然沸かなかったけれど、これ以上色んな人に迷惑をかけるわけにはいかなくて。私は母親の作ってくれたご飯を無理やり胃に流し込むと、食器を片付けて、ちょっと早いお風呂に入って、その後また部屋に戻った。
「…明日の用意しなくちゃ」
ベッドに寝転ぶ鞄を見て、ふっと思う。ゆっくりとした手つきで鞄を開けて、明日の教科の用意をしだす。1時間目、2時間目…6時間目までを用意し終えた私は鞄の中のものを全部取り出して、…固まった。
鞄の中には本来ならもうあるべきではないそれ。…形の崩れていないチョコレート。無性に泣きたくなった。そして、その横には無防備に入れられた携帯電話。ピカ、ピカと光るそれは、最近ではないことなんて珍しくない着信かメールを知らせるもの。手が、震えるのがわかった。私は携帯を手にとってディスプレイを見つめる。そうすれば、メール受信の文字…と着信ありの文字。いずれにしても相手は由美子さんだ。…でも、見る気にはなれなかった。私は乱暴に携帯を畳むと、チョコレートをそのままに明日の用意を鞄の中に入れ込んだ。
…チョコレートは明日、捨てよう。此処に置いておくといつまでも落ち込んでしまう。そんな思いから、私はそのチョコレートを明日捨てることに決めた。
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2007/02/18