翌日、私は早めに学校へ赴いた。チョコレートを処分する為だ。あれだけ決意して捨てようと思ったチョコ。けれども、その存在を見ると、どうしてもそういう気になれなくて何度となく焼却炉を行き来していた。放課後。結局まだチョコを捨てることが出来ていない。
片道切符の終着点
帰りのHRが終わった。もう、この時間しか無い。捨てるなら放課後しかないだろう。クラスを見渡せば、昨日のバレンタインの効果だろうか、新しい恋人が何組か出来ているのを見て、ツキン、と胸が痛む。…羨ましい、なんて…図々しい奴。自分に毒づいて私はきゅっと唇を噛み締める。クラスの中には「いちゃいちゃしてバカみたい」と言っている人もいたけれど、私から言わせれば羨ましいから出る強気発言にしか聞こえない。嬉しそうな、幸せそうな恋人達は手を繋いで(所謂恋人つなぎ)教室から早々と消えていった。
「受験前なのに、何浮ついてんだか」
「ね、ちゃん」そう言ったのは誰だったか。でもきっとその子も羨ましいんだろう。その言葉をぼんやりと聞いて、私はぎゅっと鞄を抱きしめた。
…早く、このチョコレートを捨てなくちゃ。
人がまばらになり始めた頃、時刻は16時を指していた。暖冬だと騒がれているけれど、夕方になればだんだんと冷え込んでくるものだ。誰だってそういう思いはしたく無いだろう。まだ残っている生徒が、早く早くと足早に廊下を去っていくのが解った。タッタと軽快な足音を聞きながら、私も早く帰らなければと思う。だけど、早く帰るためには、これを処分しなければならなくて。
―――…じっと鞄を見つめる。
鞄の中にあるもの、それは早く捨てなくちゃいけないのに、捨てられないもの。ジジ、と言うチャックの音と共に鞄が開かれ中身があらわになると、教科書達と一緒にほんの少しだけ顔を出すそれ。
不二君へ渡そうと思っていたチョコレート。一日経った今でも包装は綺麗なまま。それだけ慎重になっている自分が凄く滑稽だった。…そんなことしても、あげられないのにね。自嘲気味に笑って、私は鞄からチョコレートを取り出した。焼却炉はもう閉まってしまっただろうか?今すぐにでも向かって捨ててしまいたい。そう思うのに、捨てられないのは…不二君への想いが未だに私の中に残っているから?…本当馬鹿馬鹿しい。私なんかが相手にしてもらえるわけないのに。
無駄な皺一つ無いチョコのラッピングを見ていた。すると、聞こえてきたのは、男の声。
「うわ!お前それ一日遅れのチョコってやつか?」
「!」
後ろから聞こえた声に振り返れば、違う意味でああやっぱりと思った。気分が暗くなるのが解る。忘れることなんて出来ない声。…私の一番苦手な男子。彼の声を訊くと小学校のあの忌々しい出来事を否応ナシに思い出してしまうから嫌だ。ズキリと痛む胸を押しとどめると、彼は私の手の中に収めていたチョコレートをひょいと取り上げた。あ、と手を伸ばすけれど、彼は自分の身長よりも更に高くチョコレートを上げてしまって、手が出せない。
「…返して!」
「誰にやるつもりだったの?てか、良く渡そうなんて思ったよなーすげー自信!でもフラれたんだろ?」
なんでそんなことこの人に言われなくちゃならないんだろう。名前を出すのも嫌なくらい私の中で印象は最悪だ。私のこと嫌いなら嫌いで別に良い。でも嫌いなら構わないで欲しい。そっと、空気のように存在をなくして貰いたいのに。構ってもらおうなんて思ってないのに。どうしてこんな酷いことをするのか。返して!と手を目一杯あげるけども、全然届かない。
捨てると覚悟したけれど、それを笑いの種になんかされたくはなくて。涙が浮かびそうになった。多分この状態が続けば泣いてしまうんじゃないかって。でもこんな奴の前で泣くのなんて絶対嫌だったから強気に立ち向かおうとする。
「フラれたんだから別にどーなろうと良いじゃん」
それでも。それでも貴方にそんなことされる筋合いは無いはずだ。「フラれた」の言葉に傷つかないわけじゃない。だけど、この人にだけは触って欲しくない。…不二君への想いを軽々しく壊していきそうで嫌だ。大切なのに。大切だからこそ自分の手で終止符を打ちたいのに、この人に何かされたくないのに。ブンブンと乱暴に振られるチョコレートがコトコトと音を立てて揺れているのが解る。白いラッピングバックが上下に乱雑に揺れるのを見て胸が締め付けられた。「や、めて」多分私の声は小さかったに違いない。「はあ?何?」そう彼が言ったのが良い証拠。ニヒルな笑顔が憎らしい。
もう一度手を伸ばす。返し、て!と強めの口調で言って、彼の腕を掴んだ。瞬間
「うわ!触んな!」
言われた直後、ゴトッと落下したそれ。…あ、と重なった私と彼の声。彼の身長と腕の長さからと加えて振動がチョコに与えられた。結構大きな音のそれに真っ青になるのがわかった。目の前にいる彼はと言えば「お前が触るからだろ!」と自分は悪くないといった風な主張をこぼす。そんなのどうでも良い。だったらこんなことしないでほしかったのに。
涙が急速に上がっていくのがわかった。最悪。
そうしたところで、廊下のほうから聞こえる、声。
「どうしたの?」
それは、私の今一番聞きたくて訊きたくなかった声。「不二」とアノ人が言ったのを聞いて、やっぱりと思う。「さん?」と問いかけるような声色にビクッと反応してしまう。ハっと気づいて床に置き去りになったチョコレートに駆け寄った。それからぎゅっとそれを抱きしめる。見られたくない。笑われたくない。隠すように腕の中にしまいこんで、私はしゃがみこんだまま動けない。
「さんに何したの?」
不二君の落ち着いた声が後ろから聞こえてくる。こんな時にもやっぱり優しい不二君。ぎゅうと潰れてしまうんじゃないかってくらい力を込めてチョコを抱きしめていると、彼が「なんだよう」とおどけた口調で言いやった。
「別にただ俺は、コイツが辛気臭ぇ顔してっからちょっとした冗談のつもりで」
弁解する彼が凄く憎い。あんなの冗談でなんかすむわけないのに。ぐっと唇を噛み締めると、乾いた唇を強く噛みすぎたのか、ピっと皮が破けて鉄の味がした。あ、切れたんだ…とどこかぼんやりと思う。
すると、ぺらぺらと言い訳をしている彼の言葉を最後まで聞いた不二君が今度は口を開いた。
「そんなの、冗談ですることじゃないでしょ」
…涙が、出そうだった。代弁してくれるような不二君の台詞に。…誰にわかってもらえなくても良い。不二君にわかってもらえたってことが多分凄く私の中では大きい。
「お、おい、不二。そんなマジになんなって。軽いスキンシップだろ?ほら、コイツ根暗だし。フラれて落ち込んでるコイツを俺なりに慰めてやろうとさ」
そんな慰めイラナイ。アレが慰めなんだとしたら世界一気の聞かない人だと思う。しかもフラれたことをフラれた本人に聞かれるなんて…本当に最悪だ。今、更に酷い顔してるのがわかった。
すると、不二君の手がすうっと私のほうに伸びる。え、と顔を上げると、「大丈夫?」と問いかけられて。……顔が、紅潮するのがわかる。嬉しいと素直に思う反面、それでも今の私には不二君の手をとる資格なんかないって考える。手も添えられないまま、じっと不二君の手を見ていた。
「さん?」
瞬時に名前を呼ばれて、ハっと顔を上げる。目に映る不二君は不思議そうな顔をしていて、大丈夫?とまた繰り返した。羞恥から、上手く言葉が紡げない自分が凄く情けない。無意識のうちにぎゅっとチョコレートを抱え込んだ。
「…それ」と声が聞こえたのはそのあとすぐだ。それ、と指されるものが何なのかわからなかったけど、不二君を見ると、視線は私の手の中にあって。…チョコのことを言っているのだと想像がついた。
「…っ!」
凄く、惨めだ。渡せなかったチョコレートを必死になって守ってる、なんて。未練がましくて気持ちが悪い。顔が歪むのが解る。ああ、最悪。最低。と自分自身に心の中で投げかけて、私は勢い良く立ち上がった。不二君の呆気にとられたような表情が窺えて、私は早口にまくし立てる。
「な、んでもないの。別に、ただのゴミ」
言って、不二君に背を向けた。それから足早に窓まで突き進むと、鍵を開けて窓を開け放つ。瞬間、ビュウとつめたい風が吹き込んできて、私の顔を攻撃した。…それでもそんなの気にもならなくて、一度、包みに視線を向けて、意を決したようにゴクリと唾を飲み込んだ。それから、窓の外にそれを投げる。ひゅっと飛んでいったチョコレートは少し離れた木の下にボトっと落ちるのがわかった。…これでもう本気であのチョコは用無し。誰に食べられることなくお役を終えたわけだ。
後ろのほうで声が聞こえたけど気になんてしてられない。私は鞄を引っつかむと、その場を逃げるように去った。
不二君の顔を見る勇気、今の私には無かったのだ。
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2007/03/02