「さん!」
…嘘だ。聞こえた声に、心の中は否定する気持ちがいっぱいになる。
だって彼は今、女の子達に囲まれているはずなのに、自分の聞き違いだ。心の中でそう判断して、私は呼ばれた声を無視すると足早に校門へ向かった。
片道切符の終着点
「さん」
でも、それは無理だったみたいだ。再度呼ばれた私の名前と共に、ぐっと掴まれる肩。ビクっと振り返れば、そこにはちょっとだけ慌てた様子の不二君がいて。手にはいつもと変わらない鞄。今日みたいな日にはいつもより膨張した鞄と、それと同じくらいの大きな紙袋を手にしていた不二君なのに、今日はいつもと変わらなかった。だって、誕生日なのに?と頭の中で思うけれども口に出せる筈も無い。黙っていると、「呼んだのに」と苦笑する不二君がいた。そんな笑みでさえ、私の胸を簡単に高鳴らせてしまうから。ドクン、ドクンと全神経が過敏に働き出すのが解る。
「ご、めん…気づかなかった、の」
本当は気づいていたけれど、無視したなんていえるはずもなく、私の口からついて出たのは嘘だった。でもこんなバレバレな嘘、きっと不二君にはお見通しなんだと思う。それでも、「そっか」としか言わないのは、彼が優しい証拠だろう。絶対知ってるに決まってるのに。もう一度謝ると、不二君がたおやかに笑って私の横に回る。え、と思う間もなく、不二君の口から次の言葉が出てきた。
「久しぶりに、一緒に帰らない?」
ふわり、と風に乗って出た言葉は私の心を複雑にさせた。一緒に帰れるのは嬉しい。だけど、あんなことの後だ。気まずさに耐え切れるわけがない。きっと不二君のことだから由美子さんとの会話だとかチョコのことだとか話題には出さないと思う。けれど、それでも私には耐えられそうになかった。以前とは、勝手が違う。ちらりと周りを見れば、男女ともの熱い視線。それはバレンタインが終わったから、だろう。イベント後などは恋人が増える。―――所謂つり橋効果なわけだけど―――だから今一緒に帰ろうものなら、勘違いされてしまうかもしれない。そんなの不二君にとって迷惑にしかならないわけで。
「ごめ」
一人で帰りたい、そう結論を出そうとしたけれども、それを遮ったのは他でもない不二君だった。
「話したいことがあるから」
そういわれてしまって、私は何も言えなかった。
『明日、話したいことがある』
…由美子さんのあの時のメールを思い出してしまったから。決して表情のわからないメールだけれど、何故か、ダブって見えたのだ。真剣な表情が私を見つめる。…そんなんで、断れるほど私の神経は図太くはなくて。不二君の言葉の中の『本気』を汲み取って。…私はその後、ゆっくり肯いた。有難う、と言って笑った不二君の顔を一瞥して、そして私たちは歩き出した。周りが、酷く動揺していたのがわかる。人の目が気にならないと言ったら大嘘になるけれど、それでも、周りに何を言われてたとしても結局私はこの人を拒めないのだと思う。…ねえ、そんな笑顔で言われたら、断ることなんて出来ないってわかってる?
「今日は、歩いて帰ろう」
それはバス停の近くを通ったときのこと。言ったのは不二君だった。ちらりとバス停を一瞥した後、普通を装ってそこを通りすぎるから私もうんも言えず通り過ぎる。通り際に、ちょっと遠くのほうでバスが来るのが見えたけれど、気づかない振りをして不二君の少し後ろを歩いた。突き刺さる視線はまだ感じたけれど、それも知らぬ振りをして通した。
ただ沈黙だけが流れる空間が酷く心地悪い。それでもこの状況を変えることが出来ないのは自分が弱いからだ。ちらりと前を歩く不二君を見れば、不二君の様子はいつもと変わらない。―――一体何を考えているのか全くつかめない。どうすれば良いものか…と考えるんだけど、結局答えは出なくて、やっぱり無言で追いかける自分。
すると、不二君がくるりと私のほうを向き直った。突然のことに驚くけれど、あまりの真剣な顔に自分の表情が強張るのが解った。ムダに背筋がピンとなるのも解る。あ、と出かかった声を飲み込んで、不二君を見やれば、次に聞こえた台詞は謝罪だった。
「さん、ごめん」
そう紡ぐ不二君の顔を見つめる。どういう意味のごめんなんだろう。もしかして、私の気持ちはやっぱり筒抜けだったんだろうか?そして、この『ごめん』は私の気持ちには応えられないの『ごめん』?嫌な方へ考えたくは無いのに考えてしまうのは性格故だ。今更どうにもなりはしない。ぎゅっと胸が鷲掴みされる思いで不二君を見やれば、不二君のいつもはカーブを描いている口元がピッと水平だ。ああ、やっぱり私がさっき思っていたことは当たり?
「僕、さんを騙してた」
そう思った次の瞬間、耳に届いたのは私が想像した台詞ではなかった。…騙してた、と不二君は言った。でも、騙すって?どういうことなんだろう。不二君の言葉の意味が理解できなくて私の口からは「ぇ…」と素っ頓狂な声が漏れた。「どういうこと…?」それはあまりに小さい音量だったかもしれない。それでも不二君にはちゃんと届いたのは解った。不二君は一度私から視線を外すと、一度俯いて、また私を見た。言葉通り、見た、のだ。いつもは笑顔の不二君の、真剣なときにだけ見せるブルーの瞳。深い深い青色はまるで深い深い海底のようだ。
まるでその瞳には金縛りの力があるみたいで、動けなくなってしまう。…ふじ、くん?と途切れ途切れに紡いだ言葉は上手に外に出せたのか、それさえも上手く判断出来ないくらい、胸が破裂しそうなほど騒ぎ出していた。
ゆっくりと不二君の口が動くのがわかる。これ以上無いくらいにドキドキしてる。
「……実はさんとメールしていたのは、………僕なんだ」
それはTVなんかでやるスローモーションのように、ゆっくりとコマ送りするそれのように、一言一言が私の中へ浸透していく。…でも今の私にはすぐに理解できるものではなかった。
「どういう、こと?」
先ほどとは違う、震える声色で紡ぐ。メールって?…言ってる意味がわからないんだけど。全てのときが止まったように(そんなわけ無いのに)当たりは静かだ。
出来の悪い頭で必死に不二君の言葉の意味を探る。
……―――ねえ、嘘だよね?
そう言いたかった。そう言ってしまいたかった。だけど目の前の不二君の顔を見ればそんなの嘘じゃないってすぐにわかるわけで。でも、容易に信じたくはなくて。
だってだって、認めてしまったら私はどうすれば良い?あの会話も、全部、全部全部不二君と、だったなんて。由美子さんからのメールが、全部、全部…。
カタカタと震えだす自分の身体。それを落ち着かせるように両手を力いっぱい握った。すると、もう一度「ごめん」の台詞。まだ混乱中の頭でそれを理解して不二君を見れば、すっと差し出される携帯電話。ディスプレイには、私が『由美子さん』と登録したメールアドレスの文字が載っていた。
…嘘、なんてもう言えない。
―Next
2007/03/13