06
今日、恋人と喧嘩をした。付き合って二年経つが、私達は喧嘩らしい喧嘩をしてこなかったから、兎角焦った。「ごめん」と謝罪するよりも早く周助は「今日は帰るよ」と抑揚のない声で、けれども怒気が伝わってくる声色で言い放つと、アパートを後にした。私も追い掛けて縋れば良かったのだけれど、出来なかったんだ。どうしても。
周助との出会いは、長いもので、私が中学三年の時だった。彼が入学し、テニス部に入部してきたのが切欠。それが恋愛に変わったのは、出会いから三年たった、高校三年の時。中等部から高等部へと上がってきた少し大人びた彼に、告白をされた。ようやく言えた。とはにかんだ笑顔が、何故か中学一年の少年の顔をダブらせた。そして私と周助はお付き合いをする事になったのだ。付き合う前は「先輩」と呼んでいたのに、今では「さん」と呼んでくれる。それはそうだ。あれから二年経って私は大学進学をせず、就職した。もう学校で顔を突き合わす事等ない私達にとって「先輩・後輩」は不要だ。と私が言ったのだ。
なんて言うのは、建前。綺麗事だ。ただ、自分が年上だと言う事が劣等感だった。少しでも彼を近くに感じたかった。そんな心情に彼は気付いていたんだろう。
想えば、何度も彼は言ってくれた。「大丈夫だよ」「僕が好きなのはさんだけだから」と。
それなのに、いつも不安になるのだ。その癖、付き合っている事実を誰にも言えないでいる。
だって、言えるわけない。付き合ってるのが年下、なんて。これがまだお互い学生ならいざ知らず、かたや社会人、なんて。
今日だって、本当は一緒にご飯を食べて久しぶりの逢瀬を楽しむつもりだった。数分前の自分を殴りたい。
喧嘩の発端は今度の日曜の事だった。なんでもインターハイの決勝がある、と。普段は応援来て欲しいなんて言わないのに、何故か今日だけは違ったのだ。来てくれない?と珍しく周助がお願いをしてきた。まあ、それなら。と頷きかけて
「それで、これを機に皆にさんの事、紹介したいんだ」
凍り、ついた。紹介。嫌な予感がして聞き返すと周助は笑って言葉を重ねる。どうやらご機嫌らしい事は容易に想像できたけれども私の心はそんな周助とは裏腹に雨模様だった。ドロドロと黒い物が蓄積されていくのが解ったけれど、もう遅い。私の答えはNOだった。初めこそ周助はたおやかに笑っていたけれど、なかなか折れない私に、ついに
「じゃあ良いよ」
声が変わったのが解ったけれど、もう謝れる気配ではなかった。本当、今思い返せばくだらないガキの喧嘩だ。だけど、だって、自分に自信が持てないのだ。中学でも高校でも天才の名をほしいままにする周助は、やはり女子生徒に人気だった。何度か告白されているところを見た事があるし、私が卒業してしまったあとも本人は言いはしないがあるだろう。そんな彼の恋人が、平平凡凡で当たらず障らずなOLをやってる私なんて…申し訳なくて言えない。違う。こんな人?と嘲られたくないのだ。
「僕がさんを好きな気持ちは変わらないよ」
いつも不安になると囁く、甘い台詞。それでも不安はぬぐえない。周助の気持ちに嘘がないのは解るけれど、どうしても今まで培ったこの性格はそう簡単には変わりそうにないのだ。それでも周助は変わらず傍にいてくれるのだろうと、きっと甘えていたんだ。その結果が、コレ。今回ばかりは本気で見放されたような気がして、ツン、と鼻が痛くなった。気付いた時には、私の双眸からは涙がとめどなくあふれ出た。
結局、周助と仲直り出来ないまま、試合当日の日曜日がやってきた。あの日、すぐ謝ろうと思った。けれど、それを邪魔したのはちっぽけなプライドだった。
……喧嘩の仲直りって言うのは、タイミングを逃すと中々出来なくなるもので、その例に当てはまり、メールも電話もしづらくなってしまった。周助からの連絡も全くなく、相手が本気で怒っているんだと思ったら、やっぱり謝るよりも怖くなってしまい、連絡できなかったのだ。
――で、結局周助に内緒で、試合会場まで来てるっていうね…
知り合いにバレないように、帽子を深くかぶりダテメガネを装着すると、それだけでちょっと雰囲気が変わる気がする。少し頭が蒸れるかもしれないけれど、そこは我慢だ。キャップを眼深にかぶり直し、周助の学校が試合をするコートへ向かう。試合はもう始まっていた。…これで、周助の出番終わってたらどうしよう。不安に駆られながら足を進めた。
なかなか目的地が見えてこない。あ、れ?
…………自分が道に迷ったのだと、そこでようやく理解した。
――ハタチにもなると言うのに、迷子って、マジ?
背中に、冷水を流しこまれたような感覚に陥る。どうしよう、どうしよう。携帯で時計を確認すると、到着してか約一時間も経っている。どう、しよう…!アタフタしながら辺りを見渡していると、「先輩!?」懐かしい声が届いた。希望に胸が膨らみ、凄い笑顔で振り向いてしまった。其処に居たのは、やっぱり懐かしい後輩の姿だ。「菊丸!」そして、周助の親友でもある。うーわー!すげー久しぶりじゃないですかー!一際大人っぽくなった顔がくしゃりと潰れ、破顔する。ハイテンションで近づいてきた菊丸英二に、再会の言葉を紡ぐと、「もしかしてうちの応援っ?」とくりくりの瞳が見下ろした。こくり、と頷くと、彼の瞳がきらきらと輝いて、私の腕を掴む。「わーまじうれしー!こっちこっちっ!」まるで、お遊戯会に参加する子どもが、母親を見つけたような、無邪気な笑顔が私を案内する。そう言うところ、昔と変わってないなあと懐かしみながら、菊丸に引っ張られるままついていくことにした。
その、数分後。ようやく目的の場所へと辿りつく。「もうすぐ不二の試合なんだよねん」と中学の時より落ち着いた声が降ってきて、どうやらまだ終わってないと言う事に気付いて、安堵する。「あ、はじまるみたい」コートを見つめると、菊丸が周助に向かってエールを送る。ぎょ、っと思った時には周助の双眸がこちらを捉えた。どくり、と心臓が波打つ。実質的には、たった数日のはずなのに、もう随分と長い間会ってなかったような感覚に陥って、私は息を呑んだ。「……先輩」その声はいつもの穏やかさは無く、ただただ私の名前を呼んだ、と言う風な感じだ。皆が居る手前、苗字呼びなのは仕方がないと思うのに、つきり、と胸が痛んで、泣きそうになる。(皆に内緒にさせたのは、他でもない自分の癖に)
「………ごめん、なさい」
ようやっと言えたのは、小さな謝罪。無意識のうちに、涙で視界がにじんだ。すると、周助は「反省してるんですか?」とやはり厳しい口調で言って、その問いにこくりと頷く。…じゃあ。言いながらこちらにやってきた周助は、私を見上げて――コートよりも高い位置にいるから、だ――周助の右の掌がすっと私に伸びて来て、トン、とその白い手の甲が、私の唇に触れた後、同じように周助自身の唇に触れる。
「…この試合、勝ったら、今度はさんの口でしてくれるよね?」
「……!」
ニッ、とそれはまるで悪戯が成功した少年のように笑うから、私はただ呆然としてしまった。
「え、え、えええええ!?」
後輩達の声が、コート内に響く。あまりにも騒がしかったものだから、審判が静かに!と注意をして、そこでようやく、事態を理解した。「し、周助…!」思わず、下の名前で呼んでしまったのは、動揺してたから。もう周助は私を見てはいなかった。ただ、ひらひらと長い腕を上へ伸ばし、私の言葉に反応を返す。その背中は、どこか大人びていて私は小さく息をつく。
…敵わないなあ、もう。
彼は、この試合に勝つだろう。根拠なく思う。同時にあんなにバレるのが嫌だと思っていたのに、もうそんなことどうでもよくなってしまった。火照った顔を悟られないように、手のひらで口許を覆うと、まださっきの周助の手の感触が残っているような感覚がした。
― Fin
後書>>大塚愛さんの「ロケットスニーカー」。好きなうた歌って好きな人とキスをする。とか可愛すぎる。
2012.02.08