ポツポツポツ……。
梅雨も明けたというのに、目の前に見えるのは天から降って来る透明な雫。

でも、今日の私は準備万端。
あとはあの人を待つだけ……



直球少女/返球少年




あと、ちょっと。


時計の針を見て、私の心臓は早鐘を打った。彼に会える時間。あと数分もしたら彼が生徒玄関から出てくることはチェック済み。そして、この水曜日と言う日はほぼ彼が一人で帰る日なのだ。……乾君に恥ずかしさを殺して訊いて良かった……。自分のした勇気ある行動に一人玄関前で感動する。ぎゅっと手提げ鞄を持って、また左手にしてある腕時計を見つめた。

あと、5秒。
あと4秒。
3・2・1……

「あれ?さん?」

来た!

「ふ、不二君!」

どうしたの?って顔をして、綺麗な不二君の顔が笑顔になる。瞬時に私の顔が熱を持ち始め、予行練習した言葉が出てこない。出てくる声と言えば間の抜けた「あ」とか「う」とかそんな単調。「誰か待ってるの?」だけど、そんな私に助け舟を出してくれたのは、目の前の彼。彼のことでこんなに緊張して言葉が出ないというのに、必ずフォローを入れてくれるのは彼。なんか不思議だ。

「あ、う……待ってる、わけ…では……」

恥ずかしくなって、俯いてしまった。これで不二君の顔が見えなくて、ちょっとだけ胸の騒音は落ち着いてくる。それでも煩いには変わりは無くて、私は無意識のうちに自分の手を胸にやった。そうして何秒か沈黙が続いて、その沈黙を破ったのは勿論不二君。

「じゃあ、一緒に帰らない?」

……ハイ?

じゃあ、一緒に帰らない?
じゃあ、いっしょにかえらない?
じ ゃ あ 、 い っ し ょ に か え ら な い ?

「えぇぇぇええ!?」

突然の彼の申し出に思わず頭はフリーズ。ようやく不二君の言葉を理解した瞬間に私は大声で叫んでいた。だけど不二君はと言うと何でもない風で、全く驚きもしない。にこにこにこと最大の武器である笑顔のまま。

「って言っても、僕傘無いんだけどね?」

苦笑交じりの不二君の声が妙に耳につく。私は握り締めていた少し大きめの傘をチラリと一瞥した。不二君が傘を持ってないことは朝から知っていた。だから、今日に選んだんだ。一緒に帰ろうって、いつもなら言えない台詞を言う為に。私は更にきつく傘の取っ手を握った。ぎゅう、と。

……あ、あの……ふ、ふ、不二君、が……も、もし…その……嫌じゃ、なかった…ら、ね?」

そこまで言って口を閉じてしまった。閉ざされてしまった口はなかなか開くことが出来なくて。必然的に次の言葉が出せない。これからが本番だって言うのに、全く情けない。だけど、ここまで言うのにも私にとっては勇気のいることで。「入れてくれるの?」戸惑っていた私の言葉を訳してくれた。ふわりと微笑む不二君の顔が私の瞳に写る。男の人にしては綺麗過ぎるその顔の作りは本当に芸術品だと思った。人を物扱いするなんて駄目だとは思うけど、本当に心からそう思う。彼は芸術品。とっても繊細なタッチで描かれてるんだ。それは誰も触ることが出来ないくらいに美しくて。

「ウ、ン」

コクリと頷くと、また不二君は笑ってくれた。素敵な笑顔。この笑顔に魅了されて心奪われた女子は数知れず。そしてその笑顔に傷つく女も数知れず。不二君はみんなに優しいと思う。だけど、みんな平等なんだ。一人の人に特別、なんて有り得ない。だから優しい反面痛くもなる。でも、好きになってしまったら、その平等な優しさでも嬉しくなってしまうもので。

「じゃあ、行こう?」

私の手にしていた傘を手にとって、変わらない笑顔を向ける。パンと音が鳴って、傘が開かれた。さすがにいつもよりも大きめな傘。面積が広いなーなんて思いながら。その傘を上に掲げて不二君が私の頭の上に持ってきた。

うわわぁ!不二君と相合傘だよ…っ!

面積が広いって言っても、やっぱり二人が入るとなると狭いもので。さっきまで空いてた距離がゼロに近くなる。あと少し寄ればきっと肩がぶつかるんじゃないかってくらいに。そうすれば不二君はにこりと笑って歩き出す。ポツポツっと言う雨の傘に当たる音が妙に現実的だった。暫く何も言えずにただ歩く。不二君に触れるのが恥ずかしくて出来るだけ離れて歩いた。右肩に雨が当たって冷たい。だけどそれが何だかとっても心地良く感じた。自分の熱を中和してくれてるような…そんな感じ。

「そういえば、さん、どうしてあそこにいたの?」

誰も待ってなくて、傘もあるのに…と不思議そうに不二君に問われた。ギクっと私の胸が躍る。横を向けば不二君の綺麗な顔が間近で見れた。それがまた恥ずかしくて紅くなった顔を隠すように下を向く。地面を踏めばピチャピチャと雨の音がした。

「……えと…その……」

言葉は出てくるのに、肝心なことが言えない。そんな歯がゆさを感じながら歩く。そうすれば不二君が口を開いた。ま、いいか。と。また彼を一瞥すれば笑顔。

 「僕には得なことだったしね」

ふわりと微笑む。得、とはどういうことなんだろう?傘が無くて濡れて帰るところだったのに丁度傘を持っている人をゲットできて良かったという意味だろうか?私は不二君の言葉をそう解釈してわかっていたことだけに落ち込んだ。溜息が出そうになるのを堪える。

さん?」
「…っハイ!」

下を向いていると不二君が私の顔を覗き込んだ。思わず吃驚して声が裏返る。そしてあまりの至近距離に驚いて私は傘から出てしまった。結構な雨なので一気に私の身体が濡れる。制服の色はだんだんと濃くなっていった。「あ、」すると不二君は少し慌てた表情を浮かべて、私の元に近づいて傘に入れてくれた。それから自分の鞄からタオルを出して私の頭に乗せる。ふ、と不二君の匂いがした。それだけで顔が赤くなるのを止められない。タオルで顔が隠れているのがせめてもの救いだった。

「大丈夫?」

そう言いながら不二君が私の髪を拭いてくれる。いいから!と言おうにも言葉は出なくて。そして止め様にもタオル越しに感じる不二君の手の感触にドキドキして止められなくて。ただされるがまま突っ立って。

「ごめんね、脅かしたみたいで…」

上から聞こえる不二君の声。落ち着いた音色のそれは私の耳にするりと届いた。

「不二君の所為じゃないよ…!私が、その……ボケっとしてた、から…でして」

優しい手つき。眩暈がするほどドキドキしてる。雨が降っていて良かったと思った。降ってなかったらきっと今自分の心臓の音は丸聞こえだったと思うから。

さん」
「へ?」

パサリとタオルが落ちた。瞬間に不二君と目が合う。まだ顔が真っ赤だったと言うのに、更に熱が上がったように熱い。見られたくなくて顔を背けようにも俯くことも出来ない。それは不二君の顔が真剣そのものだったから。いつもみたいなあの笑顔なんかじゃなくて、試合中に時折見せるあの顔。いつも笑っている目は今はもうなく、代わりに見えるのはいつもは見えないブルーの瞳。

「ふ、不二…くん……」

小さく呟いた声は不二君に聞こえたのはわからない。
ザーザーと雨が私たちの横を落ちていく。

「さ、帰ろうか?」

その言葉を言った不二君の顔にはもうさっきみたいな真剣な瞳は見えなかった。
いつもの笑顔に戻って。そして、差し出されるのは不二君の手。男の人にしては白い手。

「えと…あの…」

差し出されたその手の意味がわからずに首を傾げてみると不二君がまた笑った。それから私の左手を握る。驚いてる暇なんかなかった。ぎゅ、とそれでも優しく握られた手を不二君が引っ張って歩き出す。不二君の体温が私の左手から伝わってきて熱く感じた。

さんの家、どっちだっけ?」

ドキドキが止まらなくて。笑顔を向けられる度に呼吸困難になりそうで。優しさに触れたら言いたいことも言えなくなっちゃって。折角の勇気なんか彼の前では役立たず。いつもよりも消極的になってしまってかっこ悪い自分しか出せないけれど。
だけど…裏を返せばそのくらい、大好きな、人なのです。

「……ひ、左、です」





― Fin





2005/07/20