ジングルベールジングルベール、鈴が鳴るのは?



恋人がサンタクロース?




1__With me and him and you...

十二月二十一日。今冬初の冷え込みで、私の住む東京にも初雪が降った。はあ、と息を吐き出せば真っ白いそれがふわふわと形を作って溶けてゆく。そんな様子を見ながら、もう、今年も終わりなんだなー…とちょっと感傷に浸る。私は今年買った長めのマフラーを首に捲きなおし、真っ赤に染まってるであろう鼻まで覆い隠して、背を屈め歩いた。

ただ今、登校中。
クリスマスシーズンの所為か、街を歩けば何処へ行ってもイルミネーション。夜の街に輝くそれはとても綺麗だ。昼間に歩けばただの木でしかないそれも夜になれば光を浴びてキラキラと煌めく。お店の前にはクリスマスの贈り物、とでかでかと書かれているプレートを良く発見した。それはかけがえの無い家族であったり、大好きな友達のためであったり、はたまた大切な恋人へ、だったり様々だ。私はと言えば産まれてこの方彼氏なんていたことがないものだから、三番目の選択肢はナシだ。『大好きな彼へ、とっておきのプレゼントを』そう描かれたプレートをちらりと横目に一瞥すると何の気なしに足早に駆け抜けた。もう少しで、学校に着くのだ。少し後ろ髪引かれる思いでそこを通りすぎた。…彼氏はいないけど、あげたい人なら、居る。けど、きっと無理だろう。
少し強い風の所為で乱れてしまったマフラーをもう一度捲きなおすと、私は学校へと急いだ。あと十五分で遅刻となってしまう。

教室に入れば、十一月にとりつけたストーブが明々と燃えており、室内を暖かくしていた。ひんやりとした身体がどんどん温かくなるのが解る。急激な温度変化に、私のかけていたメガネがぶわっと曇った。…メガネの悪いところと言えばきっとこういうところだ。真っ白で視界が閉ざされてしまう。しかも周りからみたらそれはとても滑稽らしく、発見されると笑われ者だ。私は素早くメガネを外し、透明になるのを待った。そうすれば、ポン、と叩かれる肩と「おはよう!」と言う元気な声。私は目を細めて確認すればそこにいたのは仲良しの友達だった。私も同じくおはようと挨拶を返せば彼女はにこっと笑ったように思う。なぜ思うのかと言えば、まだメガネをしていない私には彼女の顔さえぼやけて見えるからだ。でも雰囲気的に笑ったのは解った。

「あーあってばやっぱりメガネ外したほうが可愛いよ?」
「ありがと。お世辞でも嬉しいけど…私はこのままで良いよ」

私がメガネを外していると必ず言われる台詞。もう耳だこだ。それが社交的なものだというのもわかっている私は薄ら笑みを浮かべると、透明になったメガネを装着した。それにもうクセみたいなもので、無いと気持ちが悪いのだ。こう、耳にかかる感じとか、鼻にフィットする感じとか。そう返せば友達は勿体無いと眉を潜めた。そんな彼女に苦笑しつつ、自席へとつく。

「お!おっはよ!」
「あ、おはよう、菊丸君」

鞄を置いたと同時に、前から声をかけられて、私も慌てて返事を返した。私の左前の席は菊丸英二君だ。彼は三年六組のムードメーカーであるため凄く人気者なのだけれど、人懐っこく、明るくそしてそれを鼻にかけない性格のため、こんな私でも仲良くしてくれた。席替えで友達と見事離れてしまった私だったけど、こうして学校に来るのが嫌にならないのはきっと菊丸君のお陰だ。わけ隔てなく接してくれるお陰だと思った。本当に菊丸様様だと思う(本人には恥ずかしくていえないけれど)私の返事を聞いたのか、菊丸君は嫌そうな顔をした。むう、と口を尖らせて私の頬っぺたをペチリと叩く。勿論軽いものだから全然痛くない。本気でされたらきっと泣いてしまうだろう。でも突然叩かれたそれに呆けていると、菊丸君がぶーたれた顔のまま、続けた。

「また"菊丸君"って言ったにゃ〜?"英二"だろ!俺だってって呼んでんだからさッ!」
「…英二、君」
「よし!」
「…やっぱり無理だよ、何か英二君って言うか、菊丸君のほうが私には合ってると思うんだけど…」

嬉しそうな菊丸君を見て、彼がそれでいいなら…と思ったけどやっぱり私には恥ずかしすぎる。男の子を名前で呼ぶのなんて保育園のとき以来だ。それなのに、人気者の菊丸君の名前を呼ぶなんて無謀すぎる。菊丸君がいいと言っても、ねえ?私は小振りに手のひらをひらひらっとさせると、菊丸君に言った。そうすればまたちょっとむすっとした顔。こうして喜怒哀楽が出せる菊丸君を羨ましく思った。大きな瞳が私を覗き込む。初めこそそれにドキドキしていたけれど、人間の慣れと言うのは恐ろしいもので、今や免疫が出来てしまっている。抱きつかれた日には卒倒しそうだったものの、これが菊丸君の挨拶なんだよなーと思うようになってから平気になった。なんていうか、彼は私を女の子としてではなく、同性として接している感じがしたからだ。…そう考えるとちょっと切なくなったりするけれど、まあそっちのほうが私の心臓が持つ。そう気づいたときには私の中でも菊丸君は男の子ではなく同性となったのだ(か、感覚的に、だ!何も女の子としてみているわけではない!)目の前では「何でだよー、俺との仲だろ〜」と言ってる菊丸君がいた。まだ知り合って間もない私が言うのもなんだが、彼は、ちょっと言葉の重さと言うものを理解して無いと思う。やましい仲ではないにせよ、彼は人気者…所謂女の子にも凄く人気が高いのだ。こんな会話を菊丸君を好きな人が聞いたら怒り狂ってしまうじゃないか。でもそんなこと思っていても口に出していえない私はかなり小心者。
――この、チキンハートめ!
はあ、とため息をこぼすと、菊丸君が口を小さく膨らます。そんな姿は本当におんなじ十五歳?と疑いたくなるが、正真正銘十五歳なわけで、先月菊丸君の誕生日におめでとうをと祝ったばかりだ。世の中わからないものである。まあ、子どもっぽいところとかっこいいところ二つ持っているから彼は人気なのだと思うけれど。一人納得しながら、菊丸君の機嫌を直してもらおうと口を開いた。けれど、私の口から何か発される前に、聞こえてくるのは。

「おはよう。英二、さん」

落ち着いたテナーの声。その声だけでドキドキして私の口はだらしなく開いたまま、そこから声が出ることはなく小さくひゅうと息だけが吐かれた。こんなときだけ、素直な自分の心臓をのろってしまいたくなる。目の前ではおはよ〜と挨拶を交わす菊丸君の顔が映る。私は菊丸君が向いてる方向をゆっくりと向くと、そこには不二君が立っていた。見上げた瞬間に不二君と目が合ってしまい、顔が赤くなるのが解る。こ、これじゃあ気持ちがバレちゃうじゃないか!と心の中で自分を叱咤するけど、私の気持ちには気づいて無いのか、平然とまた不二君が私に挨拶をしてきた。

「おはよう、さん」
「お、おはよう、不二君」

必死で紡ぎだした言葉はちゃんと不二君にも届いたようで、いつもの穏やかな笑顔を私に向けた。たったそれだけのことで気分がぐぐぐと上がってしまうんだから全く現金だと思う。たったそれだけ、これだけの台詞で私は幸せになってしまうのだから。そんな現金な自分、嫌いじゃないけど。菊丸君と席が近くなってから何かと不二君とも話せるようになった。本当に菊丸君は私のヒーローだ。救世主?て言うのかな。とにかく私に幸せをくれる人。菊丸君にはそんな気は全然ないんだろうけど、菊丸君と席が近くなってから今までにないくらい幸せだ。(何か菊丸君を利用してる感が否めないけど…)ほんのちょこっとだけ、今度からできるだけ菊丸君のこと英二君って呼んであげようと思った。
一人物思いに耽っている中不二君は自分の席に腰掛けた。ちなみに不二君の席は私の右斜め前だ。つまりは菊丸君の隣の席で。ウチのクラスは男女で一ペアと言うわけではなく、大雑把にくじ引きで決められてしまう。こういった男と男、または女同士のペアになるなんてことは、良くあることだ。この席になったとき、友達と離れてしまったものの、友達やその他大勢から良いな!と言われ続けた。そりゃあ、人気の彼らの後ろな、わけだ。授業中黒板を見る振りしてこっそりと盗み見し放題なわけだ。…ちなみに私はいつも盗み見を試みる者の一人なのだが、結局恥ずかしくて見られない。自分の視界の端に不二君の髪の毛が映るだけでもドキドキしてしまって、顔なんて見られたもんじゃない(どうせ、チキンだ)…菊丸君の背中ならどれくらい見てたって平気なのに。

ふう、とため息が私の口から漏れた。がやがやと騒がしい教室の中で、菊丸君の声が無意識に私の耳に入る。不二君に同意を求めてるような物言いに、何の話なんだろう?と興味が湧くものの、社交的じゃない私は会話に入ってゆける筈もなくただ、黙っているだけだ。そうすればぐるんと私のほうを向いた菊丸君と不二君。え、と思うのもつかの間、そうなんだ?と不二君に同意を求められる始末。え、何、いみわかんない。不二君を見ればにっこりと穏やかな表情。体内の熱が一気に顔に集中するのがわかって今にも鼻血が出そうだ。…そんなの出した日にはもう不二君と顔合わせられないから堪えるけど!

「え、ごめん聞いてなかった、もっかい言って?」
「だから、さんと英二ってそういう仲なの?」

…そういうって、どういう?フリーズしそうな頭で懸命に考える。目の前ではにこにこと笑う不二君と、そういう仲だよにゃ!と顔を覗き込んでる菊丸君の姿。どっちに視線をやればいいのか、キョロキョロと二人を見ていると、不二君が違うみたいだよ?と笑っていった。それに反発するのは勿論菊丸君だ。私も参戦したほうがいいのだろうが、一体何の話なんかわからないので黙って聞いておく。そうすれば菊丸君が酷いにゃ!なんていいながら私の肩をゆすってきた。

「俺たち友達だろ?ね、だよね?」
「え、え、とも、え?」
俺のこと好きだろ〜?」

その言葉に出てくるのは「えッ!?」思いのほか大きく響いた私の声。勿論菊丸君の「好き」の意味が友達としてって言うのはわかっていたけど、それでも過敏に反応してしまった。恥ずかしさが募る。今までとは別の意味で顔が赤くなるのがわかった。そうすればくすくす笑う不二君と、ちょっと吃驚した菊丸君。きょとんとした表情で私を見てくる菊丸君の横で、不二君が優雅に笑いながら言葉を紡いだ。…それさえも芸術の何かっぽい。

「うわ、英二自意識過剰」

ふふ、と笑う仕草は綺麗って言葉がぴったりだ。不二君の言葉に菊丸君がマジで!?と私を見た。ショックを受けたらしいことは菊丸君の顔を見ればありありとわかって。

「え、あ、いや…菊丸君のことは、好きだけど…」
「あーーー!また菊丸君って!」
「ほら、やっぱり英二の思い込みだよ。さん、気を使わなくてもいいからね」
「え、いや…気、なんて…」

どうやら私がなかなか英二君と呼ばないのが相当気に入らないみたいだ。さっきとは違って完全にへこんでしまっているらしい。菊丸君は大きな体を小さくして、まるで猫みたいに背中を丸くした。何だか居た堪れなくなって、不二君の言葉に返答したあと、菊丸君の顔を窺い見る。

「え、えと…ご、ごめん、ね?英二君、あの…私たち、と、友達だよ?」

そう言えば、菊丸君はがばっと顔を上げたかと思うと、上目遣いで私を見つめてきた。ドキっとして、英二君?ともう一度名前を呼んだら、嬉しそうな菊丸君の表情が一瞬だけ見えた。何故一瞬なのかと言うと、その瞬間にぎゅうっと抱きしめられたからだ。机をはさんだにしても、近くには菊丸君があるのがわかる。私のメガネに彼のレッドブラウンの髪の毛がさらりとかかった。突然のそれに、顔が真っ赤になる。そりゃあ抱きつかれるのは時々あるがそれは全部後ろからで、前から抱きしめられるのとは全然ちがう!

ーーーーっ!」
「き、え、あ、の、ちょは」

言葉が上手く紡げない。ちょっとこの状況はヤバイんじゃないですか?だって、だって、いくら私と菊丸君に恋愛感情がないにしても、はたから見たら、さぁ。どうすれば良いのかわけが解らない。ショートしそうな頭を必死に働かせるけどもうどうすれば良いのか。ダメだ、相当私の頭はパニックらしい。まだ離れない菊丸君の体をちょっとちょっとと引き剥がそうとするけど、当の本人は周りなんてそっちのけ状態で離してくれない。

「英二、離してあげなよ」

そんな私を見たのか、聞こえてきたのは、天の助け。不二君の落ち着いた声だった。



2__A promise after school

寒い外に出ると、目の前には薄らと雪景色。ちらちらと降り続く雪を見て、私は水色の傘をパサっと差した。昇降口を出ると、玄関口のときとは比べ物にならないくらいの冷え込み。刺すような風が頬にかかって、痛い。これは早く帰るに限る。そう判断すると私は早足で階段を駆け下りた。もう殆どの人が踏んだあとの雪は茶色くなって少し可哀想に思う。私はそれに一度目を向けると、すぐさま真っ直ぐを向きなおした。前を歩く人は殆どおらず、グラウンド近くではどこかの部活だろうか?大きな掛け声が私の耳を刺激した。こんな真冬にご苦労なこと。と思いながら校門へ向かう。が、ふっと気になって、進んでいた道を右に曲がった。向かう先はテニスコート。特に何があるわけではないのだが、そういえば今日の休憩時間に菊丸君が今日の練習は基礎トレだ〜と愚痴っていたことを思い出したのだ。今頃練習に励んでいるころなのだろうか?そう思い、ちょっとのぞいてみようと思ったのだ。あわよくば、ほんのちょっとでも彼の部活をしている姿を見てみたい。そう私は小さく胸弾ませテニス部の居るところへ急いだ。

「…何、これ」

ついた瞬間、目を見張った。一体ここはプロのテニス場?と言いたくなるくらいの凄い人、人、人。しかも綺麗に女子ばかりである。フェンスにしがみつくように群れている女生徒達を暫し唖然と見つめた私は、そういえば…と思い出す。それは、友人の言葉。以前、「テニスコートは戦場よ」と言われたことを思い出した。そのときは「ああ、強豪といわれるくらいだからみんなレギュラーになろうと必死なんだな」と深くその発言自体に突っ込まなかったのだが、ようやく友人のその台詞の本当の意味を知ったような気がした。これは本当に戦場である。我先我先と言った風に押し合いへし合いを繰り広げる大群に、お前らはエサに群がる金魚かよ!とツッコミたくなる。不二君が好きな私だけど、実際は一度も練習を見たことがないのだ。だからテニスコートがどんな悲惨な状態なのか、知らなかった。
…これじゃあ、彼の部活の姿なんてみれないな。
そう諦めて、小さく息を吐く。くるりと引き返すためにコートに背を向けた。

さん?」

瞬間、かけられた声に、ドキッと胸が弾んだ。聞き間違えるはずのない声に、バクバクと心臓が騒ぎ出す。落ち着け!落ち着け!と心の中で叱咤して、何とか冷静さを取り戻すと、何食わぬ顔で再度振り返った。「な、何?」…きっと声は震えていたに違いない。ほんの少しだけ声が高くなった気もして、ほんの少し恥ずかしくなる。けれど、相手は何とも思ってないようで、振り向いた私に「やっぱり」とにこっと笑った。ふ、不二君?と冷静に名前を呼ぼうとしたけど、結局噛んでしまった。でも、仕方ない。好きな人の前なのだ。自ずと緊張してしまうものだ。自分ひとりでそう結論付けると、うん、と小さく頷いた。すると、「ちょっと待ってて」 そう私に言い放つ。すると、不二君がフェンスの扉から出て、私のところにやってきた。タッタとやってきたと思ったら、ふふ、と不二君が穏やかに笑った。笑顔は人を安心させる作用があるって言うけど、不二君の笑顔は目に毒だ。ドキドキしすぎてどうにかなりそうになる。私はメガネをぐっと上げて、平然を装った。「どうしたの?」と言えば、不二君が、うん、と肯く。何か言うんだろうと言うことはすぐわかったから私は不二君の言葉を待った。

さん、もう帰っちゃうの?」
「え、あ、うん…」

聞かれたことにちょっとばかり吃驚したものの、何とか肯いて答えた。そうすれば不二君が「もう少し居ればいいのに」とふっと笑う。居てもいいの?と口にしようと思ったけど、口の中がカラカラに乾いてしまって、すぐには何もいえなかった。「…いや、なんか圧倒されちゃって」とメガネを無意味にいじっていると、不二君がああ、と納得したように声を溢した。数秒の沈黙が流れる。どうしようか…私は頭の中で考えていた。今、ここでじゃあと言えたら良いのだけれど、何だか帰りがたい雰囲気だ。不二の様子をチラリと見れば、不二君は何か考えごとをしているようで、うーん、と手をアゴにやっている。ますます帰りにくくなってしまい、私は意識的に下を向いて不二君の視線から顔をずらした。

「…今日は、見学してくれない?」

突然の申し出に数秒の間呆けてしまうが、慌てて、え?と聞き返すと、不二君がくすっと笑った。だって急激な展開(たかが見学だけども!)についていけないのだ。私のちっぽけな頭では、さ。けれどもくすっと笑われてしまったことからすると、少し恥ずかしさがこみ上げてくる。ああ、もう本気で冷静じゃいられない。

「…良いけど」

やっとのことで二つ返事でOKすると、不二君が顔を緩めるのがわかった。…冷静でいようとしてかなり素っ気無くなってしまったけど、不二君はそれでも嫌な顔をしない、と思う(心の中で厭な子って思われてるかもしれないけど)良かった、と言いながらあそこらへんなんか良いよ。とベストな位置を教えてくれた。ここなら確かに女子が極端に少ないからまだ居やすい。不二君にありがとうとお礼を言うと、「ううん」とひらっと数度手を振ってくれ、フェンスの中に入っていった。



初めての部活見学も終わり、不二君に言われるがまま彼を待っていた。ただ今不二君は部室で着替え中だ。私は何をするでもなく、フェンスによりかかっていた。不二君の着替えが終わったのはその数分後だ。お待たせ、と言いながらテニスバックを肩に掛け、駆け寄ってくる。何だか付き合ってるッポイ感じの会話にちょっとだけどきどきする。まあ、そう思ってるのは私だけなのだけど。「大丈夫だよ」 言いながら不二君の方を見ると急いで出てきてくれたんだとわかる。その気遣いが凄く嬉しくて、小さく笑んだ。
「じゃあ帰ろうか」と、歩き出す不二君に肯いて、後ろをついて歩く。そういえば私、不二君と同じ方向だっけ?と思わないわけじゃなかったけど、私にそんなこと言う余裕があるわけもなく。ただひたすらについていく。歩調を合わせてくれてるんだと気づいて、申し訳ないと同時に、嬉しく思う。でも甘えるわけにはいかず、頑張って早歩きで進めば。「あ、早い?」と気遣われて大丈夫だと伝える。

「慌てなくていいよ?」

そうすればクスッと笑われて、足を指差された。指摘されて、これは仕方ないと思って甘えることにした。どんな話をすればいいんだろう。つまらないと思われちゃダメだよな…と色々考えているけど、結局口からは何も出てこなくて、無意味にメガネを弄んでいた。すると、かかる声。「そういえば…」と言いながら続く言葉に耳を傾ける。

「今日の朝のことだけど…」

言われた言葉に、今日の朝?と今日あった出来事を思い出す。そこで、HR前のことを言ってるんだと気づいて、あっと声を上げた。それから不二君が何か言う前に、私は声を上げた。

「あっ、け、今朝はありがとう!助かったよ」
「あ、ううん。僕は特に何もしてないよ」

上ずった声にもう私の莫迦!と自分を責めたくなったが、不二君は気にして無い様子で私の台詞に言葉を返してくれた。ふふ、と笑いながら言われた台詞に、そんなことないと首を横にふると「どういたしまして」と返事が返ってくる。そこで会話は終わったかのように思えたのだが、そうではなかったらしい。

「それに、僕が厭だったしね」

呟かれた言葉が理解できず、え?と不二君を見ると、自嘲気味に笑う不二君の顔。もしかして仲間はずれっぽくなっていて面白くなかったのだろうか?とか、親友の菊丸君と仲良くしすぎで楽しくない、とか?と色々考える。でも全て考え事は良い方向ではなく、想像してちょっとだけ落ち込む。笑っていたけれど、実は心の中で起こっていたのだろうか?不安が拭えなくて、私の口からは掠れるような謝罪しか聞こえなかった。

「え?どうしてさんが謝るの?」
「だ、だって…」

すると、不思議そうに覗き込んでくる不二君の顔が近くにあって、ドキっとするものの普通を装って視線を外す。だって、と続いた言葉は果たしてどう伝えればいいんだろうと考えてなかなか声にならない。そうすれば不二君は何か考えついたのか、ふふ、と笑って私より先に言葉を紡いだ。

「もしかして、何か勘違いしてない?」
「え、」
「僕が厭だったのはさんがどうのじゃなくて、英二のほうだよ」

言われた台詞は更に私を困惑させるものだった。え?菊丸君のほう?更に意味がわからなくて、無意識のうちに眉が寄っていたのか、不二君がくすっと笑って私の眉間を指差した。私は慌ててもとの顔に戻すと、「つまりね」と隣からかけられる声。

「僕はさんと英二が抱きついてるのが厭だったってこと」
「そ、それってどういう」

つまりねと言われたものの結局言いたいことがわからなくて、?と首を傾げる。するとまたクスリと笑われて、見上げればいつもとどこか違う笑みを浮かべている不二君。

「これ以上言わせる気?さんって案外意地悪?」
「え!ち、違!」
「ふふ、わかってるって」

さんって面白いよね。と言われて褒められてるんだかどうなんだかと複雑な気持ちになるけれど。でもつまらないやつと思われていないだけマシだと思うことにして、一人納得した。すると「ねえ」とまた声をかけられて、ン?と見つめれば、不二君がゆっくりと口を動かす。

「本当のところ、英二とどういう関係?さんのことって呼び捨てしてるくらいだから…」

まるでそれはスローモーションのようで、すぐには意味がわからなかった。え、っと…。と返事に困ってしまった。どういう関係も何も、一クラスメートで、近くの席で…友達?だと思っていいんだろうかと言う微妙な関係と言うか。上手く言えない。困惑すると「僕、さんを困らせるの特技になっちゃったかな?」と笑われた。そういうわけじゃ!と言い訳しようとすると、それを遮るように不二君が言葉を紡いだ。

「…英二のこと、好き?」

言われたことが理解できなくて、私は素っ頓狂な声をあげた。今朝、そういう話をしたにしても、今回はなんというか…雰囲気的に、朝のものとは違う意味合いだということが伝わる。私が好きなのは不二君だよ!言いたくなったけど、そんなこと言える勇気なんて私は持ち合わせていない。ただ、唖然と不二君を見れば、いつもの笑顔は消え去って、凄く真面目な表情が私の目に映った。
…こんな不二君、知らない。いつも優しい彼。どんなときでも笑顔を絶やさない凄い人。私の中で不二君はそんなイメージの人だったから、初めての真剣な瞳に、ゾクっとした。ほんの少し、怖く思ってしまったのが本音だ。ふ、じ…君?と戸惑いがちに紡がれた私の言葉は、白い息とともに空気中に吐き出されたはずなのに、あまりに小さくてよくわからなかった。

「なんて、ね」

数秒、多分十秒にも満たない時間だったと思う。交わった視線が痛くて、でも放せなくて沈黙が流れていたけれど、それを破ったのは不二君だった。その台詞とともに、不二君の顔に笑顔が戻る。何だか酷く安心してしまって、小さくほっと安堵の息を漏らした。普通の不二君だ。そう思ったら今までの緊張が解けたような気がして、私も笑顔が出来るようになる。

「急に真面目な顔になるから、…その、び…吃驚したよ」

言えば、ごめんね、と優しい声色が返ってくる。完全にいつもの不二君だ。

さんの反応が面白くてつい、ね」
「…も、もう…」

言われた言葉は笑いを含んでいて、顔が真っ赤に染まるのがわかった。フフ、と綺麗な笑みにどきどきするのがわかる。今、歩いているはずなのに、何だか浮遊感があるみたいな感覚に陥って、今私は歩いているのかわからなくなる。フラフラ〜と覚束無い足取りで不二君に遅れを取らないように歩いていると、ふっと不二君が呟いた。「…でも、確かに仲良いよね」と。また、え!と焦ってしまって、そんなことないよ!とすぐに返答したけれど、不二君がフフっと笑う。

「でも、英二が名前で呼んでるってことは相当さんのこと好きなんだよ」
「ち、違うよ…菊丸君は、優しいから…。場に慣れてない私に気を利かせてくれてるだけ、で。名前で呼んでくれるのだって、そう、だし」
「気、を…ね」
「ふ、…不二君?」

どうしたの?何だかさっきから妙に菊丸君のことで突っかかってくるな、と思いながら、名前を呼べば、不二君が苦笑交じりで私を見た。なんでそんな表情するの?不二君の真意がわからなくて、でも聞きたくても聞けない小心者の私。もっと積極的になれたらよかったのに、と思ってもすぐに勇気がわいて出るわけでもなく、私は何を言うでもなく気を落ち着かせるためにメガネを二、三度上げた。

「じゃあ、僕も、さんのこと、名前で呼んでもいい?」

………え、何この状況。

何今言ったの?不二君、なんていったの?はっきりと聞こえるくらいの音量で話してくれた不二君だけど、どうやら私の耳は変になってしまったらしい。上手く、聞き取れなかったみたいで、私の勝手な願望が耳の方で木霊する。今、誤変換して不二君が「名前で呼んで良い?」って聞いてきた気がしたよ。耳鼻科行った方が良いかもしれない。正気じゃいられなくなって、さっきあげたはずのメガネがズレ下がったのがわかって、慌ててくっと上げた。ムダに心拍数が上がっていってる気がして、どうすればいいかわからない。

「あ、の…ちょ、え?」

言いたいことがなかなか言えない。それは多分緊張から。目の前にいる不二君はそんな私の状態を見て、薄く笑みを浮かべている。もっかい言って?と言えたのはそれから暫く経ってからだった。頑張って言えた言葉に不二君は何の躊躇いもなく、続ける。

「だから、さんのことって呼んでもいい?」

やっぱりさっきのは聞き間違いや勝手な妄想じゃなかったらしい。さっきと変わらない、それよりもストレートになった台詞に、ボっと顔が蒸気するのがわかった。突然の不二君の申し出にどう反応をすれば良いのか本気でわからない。唇が乾いてパサパサになってるし、喉もカラカラで上手く言葉が紡げない。まさか、自分が不二君に名前で呼んで良い?なんていわれるなんて露にも思っていなかったのだ。

「ねえ、ダメ?」

何にも言わない私の後を促すように、再度呼びかけられる。え!と声を上げれば不二君がくすっと笑って「そんな警戒しなくても」と言う。そういう意味ではなかったんだけど…とぼそぼそと呟いた。それは不二君に聞こえたのかわからないけれど。じっと見つめられて、更に緊張して口が強張る。でも伝えなければならない言葉がある。

「だ、ダメ、じゃ…」
「ん?」
「だ、ダメ…じゃ、ない…」

です、って言葉は凄く震えてたと思う。今までよりももっともっと顔が紅くなっていくのが自分でもわかった。心臓が凄く早くドクドクドクドクってどんどん加速していくのを感じる。私が言った言葉はちゃんと不二君にも伝わったらしく、良かった。とそう安堵するように吐いて、笑ってくれた。

「これで断られたらどうしようかと思ってた」
「そっ、そんなこと!」

私が断るなんてあり得ない!そう続け様に言うと、不二君が一瞬驚いたような顔をしたけれどすぐにそれはなくなって、にこっと笑った。もう何度この笑顔を今日拝んだんだろう。今日この帰り道だけで私の一生分の幸せは使い切ってあとの残りの人生はどん底かもしれない。でもそれでもいいと思えるくらい幸せだった。だって、不二君の笑顔は私の幸せそのものなのだから。私だけに向けられた笑顔、それはずっと願っているものなのだから。


「は、はいっ」

突然呼ばれた名前に過剰に反応すれば、それが面白いと言わんばかりに笑う不二君。でもその笑顔が優しく思えるのは、私の勘違いだろうか?勘違いだとわかっていてもそう思ってしまう。もう自信過剰だとか自意識過剰だと思われても良い。瞳が優しく思えるのだ。呼んだあと、不二君は「僕のことも名前で呼んでいいよ」と言ってくれた。本当に何だか今日はあり得ないくらい幸せだ。それでも不二君の台詞は私にとって衝撃的で、「えっえっあの!」と単語にならない台詞ばかりが口からついて出る。「何?」と首を傾げ見てくる不二君を見て、更にどきどきして、上手く言葉が紡げない。ああ、もう!と心だけが急かんで、行動がついていけない。数度、深呼吸をして何とか落ち着こうとし、先ほどよりも落ち着けたと思ってゆっくりと口を開いた。

「で、でもその…」
「嫌?」
「い、嫌じゃないけど!」
「…もしかして、名前知らない?」

不二君の一言一言にいっぱいっぱいになりながらも返事を言い返す。すると何を思ったのか、少し口を噤んだ不二君はそんなことを私に言ったのだ。し、知らないわけないじゃない!と大声を出すと、不二君は少しきょとんと鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。あ、と思って口を手で覆うが既に遅い。急に恥ずかしさがこみ上げてきて、私は俯いた。足元に見えるアスファルトの一点をじっと見つめて時をやり過ごそうとすると、頭上からかかってくる声。「本当に?」と訝しげな声に、私は反応して、コクンと肯いた。じゃあ何?と促されるように言われて、私は少し口を噤んだ後、もう一度不二君を見上げて。

「…周助、君」
「正解」
「知ってるよ」
「じゃあ呼んで?」
「…で、でも」
「僕だけって呼ぶの、不公平じゃない?」

ああいえばこういう。菊丸君とは別の意味で厄介だ。なかなか引き下がってくれなくて。そりゃあ私だって不二君のこと名前で呼びたくないといったら嘘になるけれど。でも、私は下の名前って特別なものだと思っている。好きな人に呼んでもらえて初めて自分の名前が凄くいいものに思えると思うのだ。この時点で私の名前は特別なものになっているのだが、でも不二君は私とは違う。私が知る中で不二君のことを「周助」と呼んでいる人なんて知らない。あの中の良い菊丸君だって周助、なんて呼んで無い。それなのに、私なんかが気安く呼んでしまっていいのだろうか。不安になってしまうのだ。

「そういうのは、す、好きな人に呼んでもらったほうがいいと思う、よ?」

ようやく言えた言葉は可愛げの無い台詞。不二君は私に気を使ってくれただけなのだが、それじゃあ私が嫌だったのだ。自分の我儘、それはわかっているけれど、同情とかそんなもので不二君の名前を呼んでも嬉しくなかった。私は俯きながら落ちそうになったメガネをかけなおして、不二君の言葉を待った。ああ、もうこれで話しかけられなくなるかもしれない。一抹の不安が私を襲うが、それでも、私は軽々しく不二君の名前を呼ぶなんてこと、出来なかったんだ。

「……だから、呼んでもらおうと思ってるんだけど」

そして、聞こえてきたのは、そんな言葉。え、…唐突な台詞に、驚いて顔を上げれば、困ったように笑ってる不二君の顔。今度は私が狐につままれたような感覚に陥って、しばらくぽかんと口をだらしなく開けていた。どういう意味だろう。いろいろ考えて、きっかり十秒。それって、ねえ、良いように解釈しちゃって、いいの?喉がからからに乾く。まるで言葉を忘れたみたいに、たどたどしくようやっと言葉を紡げば、双眸に映るは、少し紅潮した不二君の顔。

「良いも何も…だって僕はの事好きだから」





―Fin





2006/12/24〜25