困ったときの柳生君
十二月。中学三年生にとっては「受験」と言うものを本気で考えてしまう時期だろう。十二月に入ってから初めての雪が、この神奈川でも降った。さすがに何十センチも積もると言うことはなかったにしろ、数センチ積もった今日なんかは外に出るのが億劫になるくらい寒かった。
けれども十度以下になると使用可能となるエアコンのお陰で、この教室はとても暖かい。ただ今放課後のこの時間。普段なら受験生ともなれば足早に家に帰るか塾に行くか図書館へ行くか…と早々に帰ってしまうのだが、柳生とはそんなことはせず、自分達のいつも使用している教室で勉強だ。ようは、勉強場所なんてどこでも良いのだ。
部活引退後、同じテニス部に所属していた二人(と言ってもはマネージャーなのだが)は暇を見つけては二人でこうして居残っては勉強会を開いていた。まあ、単なるクラブメイトと言うには余所余所しい関係で、仲がいいと言っても毎日毎日他人(ヒト)様の勉強など見ている余裕は柳生には無いだろう。
それが何故、は?となるのだが、はっきり言えば恋人同士の二人。そこで出来の良い柳生が、出来の悪いに勉強を教えてあげようと、そういうことなのである。さすがに中学で浪人とか勘弁してもらいたい。出来るなら同じように高等部にあがりたい、柳生はささやかにそう思っていたのだ。
「あーもう駄目、全然わかんない。もう何か無理!」
勉強会が始まると聞こえてくるのは独り言。もうそんなのも日常茶飯事だ。またか、と柳生は心の中でため息をつくと、目の前でしかめっ面をして匙を投げているを見つめた。
そうすれば彼女は勉強に飽きたのかまだ上手く出来ないペン回しを一生懸命していた。確か、仁王がいつだかペン回しをしているところをが発見し、挑発され今も練習しているそうだ。いつまで経っても上達しないのペン回し。理論上は簡単なのだ。ようはこつを掴めばすぐにでも出来るものなのだろうが、まだ彼女はこつをつかめないらしい。
ぎこちない手つきで「あー」とか「うー」とか一人ごちながら眉間に皺を寄せ挑戦している。「打倒仁王!」とでかでかと宣言してしまったからには早くできるようになりたいのだろう。あの仁王に宣戦布告をするなど思い切ったことの出来る女子はきっとこの目の前にいるただ一人だけなのだろう。
半ば呆れながらもしばしのペン回しを見守っていた柳生だが今すべきことはそんなくだらないペン回しではない。
早々に判断をつけると、柳生は彼女の右手でたどたどしく動くペンを奪い取った。
「ああ!ヒロ取らないでよ!」
「勉強をするのでしょう?」
そうすればずっといじっていたペンがなくなったことには抗議の言葉を申す。だがそれを難なく正論で返す柳生。けれども正論と言うのは一般論がわかっているものにだけ通用するものなわけで、目の前にいる少女には通用しないらしい。
「だから、ペン回しの勉強!」
ああ言えばこう言う。はそんな性格だった。素直に言えばいいのに何故かひねたことを言う。直球よりも変化球。それが彼女なのだろう。いつだったかそんな性格を「可愛くないよ」と友人に指摘されたことがあったが、それもの持ち味だ。あたしはあたし。と言った風に気にする様子もなかったが、毎度毎度こうだとさすがの紳士柳生も呆れてしまうもので。以前は一々真面目な反応を返してくれた柳生も、だんだんとの扱いに慣れてきたのか今では「はいはい」と軽く流す程度だ。
そんな柳生の反応に、初めのころは戸惑いやふて腐れがあったものの、も慣れたのか今では何も言わない。ちぇ、と口尖らすと綺麗な教科書を睨みつけた。
「だって、わかんないんだもん」
「どこがですか?」
「…どこがわかんないかわかんない」
「………」
「あ、今呆れた顔した!」
はそんな柳生の顔をビシィと指差すと口を膨らませた。柳生はコチラに向いたの指を、そっと下ろしてやる。「人を指差してはいけないでしょう」やんわりと言いながらの手を机に置いてやると、メガネを上げてのノートを覗き込んだ。何処まで進んだのかチェックしているのである。
そうして、柳生は小さなため息をついた。
その理由は見ればわかる。彼女の机に出してあるノート。…真っ白なのである。勉強を始めて二十分と言ったところだろうか?いくらなんでも白紙はあんまりである。ため息をついた後、柳生は顔をに上げると、は罰が悪そうに控えめに笑った。「あの、ね」と紡がれた声はいつもよりも高く、どこか可愛らしい。可愛くせめて許してもらおうという魂胆が見え見えだ。柳生はもう一度小さくため息をつくと、同様に開いてある教科書に目を通した。その間に、紡がれる言い訳。
「ほらーあのー…ね?もう初めから読めないわけですよ、ウン。だから解きようがなくてですね、ハイ」
教科書に目を落としている柳生を躊躇いがちに見ながらあはは、と乾いた笑みを浮かべるの内心は焦りだ。毎日この調子なのだ。自分が馬鹿で勉強が苦手だと言うことは初日に勉強を見てもらっただけで悟られてしまったが、決してなれるわけではない。好きで勉強が出来ないわけではないのだ。いくらにだって羞恥心や恥じらいはあるわけで。あまりの阿呆さ加減に見限られたらどうしようとか不安になったりもするわけだ。…それなら家で予習でも復習でもして努力しろと野次が飛んできそうだが。
「ふむ…」
そう呟いたのは数十秒にも満たない時間。柳生はメガネの淵をもう一度持ち上げると、に教科書を向け、説明し始めた。彼女にもわかるように出来るだけ簡潔に、だ。
その間はいくらでも黙りこくってしまう。真剣に聞かねばと言う想いが何処かしらあるからなのだろう。柳生の説明にふんふんとかそっかーなどと言った相槌を打つ。
一通り説明を終えた頃には少しは理解できたらしい。ありがとう!とお礼を告げると訳をノートに書き出していく。スラスラと進む文字。
「うーん、か・い・か・んっ」
語尾にハートがつきそうな程テンポの軽い口調に柳生はふっと笑みをこぼす。何だかんだいいながら結局に弱いのだ。これでも一応恋人同志、告白はが押して押して…休むことなくひたすら押しまくって掴んだ勝利。相撲で言うならば完全に押し出しストレートなわけである。
初めこそ恋人同士というよりもご主人とペットと言うノリだった二人だったが、だんだんとそんなアホなペットに情が沸いてきたのか今では彼女馬鹿になりさがってしまったわけである。惚れている、なんて恥ずかしくて本人には言えていないのだが、自身気づいているのでヨシとする。知らぬは本人ばかりなり、と言うことだ。
先ほどまで真っ白だった空白のページは今や半分も真っ黒に染まっている。スペルがわからんだの、意味がわからんだの抜かしていたが彼女に抜けているのはようは集中力なのだ。誰かが少し助言して、監視(といったら聞こえが悪いかもしれない)が居ればこの程度の問題ならばちゃっちゃと出来てしまうのだ。
普段は勉強嫌い厭だ最悪等と罵っているだが、問題が解けたときの彼女は本当に嬉しそうな笑顔を向ける。
「勉強は嫌いだけどさ、こうして出来ると嬉しいよね!」
にぱっと子どものようなあどけない笑顔で柳生に言えばほんの少し緩む口元。「そうですね」と柳生はの言葉に同意してやると、それだけで嬉しいのかは「だよね!」と言うとノートの方に視線を移した。
シャカシャカシャカと休まることの無いシャープペンの音。
柳生は小さな音を聞きながら自分の課題をこなしていった。
* * *
それから、数分後のことである。
ようやく今日の範囲の半分くらいが片付いたは、一度ペンを置くとんーと伸びをした。
それから二、三首を左右に動かす。コキと小さく音が鳴ったことからして、相当首が凝っているのだろう。は〜と息をこぼしながら右手で肩を揉みながら柳生のほうを見つめた。そうすれば柳生の方はもう自分の課題は終えたらしく、今ハマっているというミステリー小説を黙読していた。
じ、と見つめているとどうやら視線に気づいたらしい。
「どうしましたか、さん?」
小説から視線を逸らした柳生はこちらをずっと見つめてくるに小首を傾げて問うてやる。そうすればはただ無言でううんと首を横に振った。少し長い髪の毛がふわりと左右に踊る。それを眼鏡越しに見やった柳生は読みかけのページに栞を挟むとぱたりと閉じた。
「わからないところがあるんですか?」
「ううん、今やってるところ基礎だから。応用になったらまた聞くと思うけど…」
「そうですか」
教科書をつついとペンで指し示した後、小さく笑うと柳生も少し安堵したような表情を作った。けれども、だったらどうしたと言うのか。一向に勉強を開始しようとしないを黙って見ていると、は言い辛そうにペンで弄び始めた。あの、ね。と言いながらペンの頭をカチカチとムダに押し続ける。長くなった芯が今にも折れそうになっていた。「どうしました?」促すように言葉を並べればが欲されるままその先の台詞を口にした。
「ヒロはね、将来の夢ってあるの?」
「夢、ですか?」
「ウン。あたしはね、無いんだよね…小さい頃に花屋さんとかケーキ屋さんとか看護師さんとか色々考えたりとかしてたけど、どれも本当に夢って感じで実現させたいって程のものじゃなくて。コレ!って言ったものがないんだよね、あたしには。とりあえず中卒じゃあダメだから高校行かなきゃなーってその程度にしか思ってないから勉強もそこまでしようって気になれないし。もう十二月も終わって新年が始まって受験まで二ヶ月なのにさ、周りはピリピリしてるのに、なんかあたしだけ置いてかれてる気がするんだけど、勉強しなきゃって頭ではわかってるけど、何か今でも他人事のようにしか思えなくて。あたし自身をどこか第三者で見てる自分がいるんだよねぇ」
ペンをいじくり回しながらふう、と息を吐く彼女。いつものハツラツとした表情とは打って変わってのそれに、柳生は多少なりとも驚きを覚えた。けれども付き合い始めてはじめてのの本音に、少しでも気を許してくれたのだろうかと嬉しい気持ちにもなってくる。頼られたと思ってもいいのだろうか?と少々自惚れながら(自惚れではないだろうが)柳生はいよいよ小説を机に置くと、のほうを見た。
自分に出来ることは何があるだろう。そう考えて、柳生は暫し口を閉ざしていたが、ふっと小さく笑みを溢すと、口を開いた。
「この年で、夢がきちんと決まっている人間なんて殆ど居ないと思いますよ」
「でも…」
「それに今さんは言ったでしょう。中卒のままじゃダメだから高校に行かなきゃ。と。ワタシはそれくらいの目標から始めてもいいと思いますよ。夢なんて大きければ良いと言うわけではありません。いくら大きくてもただの夢のままなら小さくてもかなえたほうが凄いと思います。…焦らなくても良いんじゃないんでしょうか。物は考えようです。受験と言う分岐点に立たされたと言っても結局ワタシ達はまだ中学生です。沢山悩む事だってあるでしょうし、辛く思うことも数あると思います。でも、さんはさんらしく少しずつ消化していけば良いとワタシは思いますよ」
「……なんかヒロの口から中学生って言葉が出ると絶対嘘だって言いたくなるね」
「何故です?」
ごめん、嘘。言いながら俯く。今彼女は何を思っているのだろうか。あまりにも月並みな言葉で呆れてしまったのだろうか。少しばかり不安になるが、すぐに前を向き直ったの顔がいつもの明るい表情に戻っていたことで、ほんの少しではあるけれども柳生は安堵した。ありがと!といつもならば恥ずかしくて絶対言わないようなお礼をにこっと笑って言われて、不意打ちのそれに柳生の胸が弾む。ほんのりと紅くなった頬を隠すように、いえ。と冷静に返す。
「ヒロの言葉を胸に、頑張るよ!ウン、そうだよね、あたしはあたしらしく、ね!」
へへへといつまでも嬉しそうに笑う。
未だ勉強は進まずじまいだったが、それでも今日くらいは休憩してもいいか、と結局最初から最後まで恋人に対して甘い柳生だった。
―Fin
あとがき>>実はこれの後、続編として「気をつけて、柳生君!」をssにてup…。でもヒロインの性格がかなり黒く、このバカップルさなど微塵もありませんので読む人は気をつけてみてください。柳生がかわいそうです。
2006/12/30