*AOI BENCH01
大切だった、何よりも。
大好きだった、誰よりも。
それなのに、あの日僕は何よりも大事な彼女の手を、手離した。
「ごめん、もう…っ…無理…っ…」
辛いよ、といつもの明朗な彼女からは考えられない程か細く、今にも消え入りそうな声が、電話越しに伝わった。僕はただただの「別れて、ください」の声に、うん。とわかった。と承諾する事しか出来なかった。
ごめんね。傍に居てあげられなくて。不安な時抱きしめてあげられなくてごめん。最後のとの思い出は涙声。瞼の奥の思い出のはいつも笑っていたのに。悔しさに握りこぶしを作りながら、でもやっぱり僕は引き留める言葉を持ってはいなかった。
あの頃の僕は、の不安を取り除いてあげられる器量も、またすぐにかけつけてあげられる程の術も何も持っていない"子ども"だった。
そうして、
4年連れ添ったとの交際は距離と言う小さな、けれども大きな壁によって終止符をうった。
中・高と、幾度となく歩いた歩道を一人歩く。木枯らしが吹き抜け、北風が不二の身体を痛いほど吹き付けた。ぼうっと思うのは、元恋人であるとの事。
中学、高校、と常に一緒に居た。一緒に居る事が当たり前になり、いつしかお互い想い合う関係になるのに、そう時間がかからなかったものの、お互い素直になれず、二年の時を過ごした。そして、中学三年の冬。
「不二君の事が、……好き、」
頬をほんのり染め、恥ずかしそうに俯きながら呟かれた、愛の告白。だらしなく緩みそうになる頬に何とかカツを入れ、いつもの余裕の笑顔で「僕も」そう答えた不二の返事に、二人はついに恋人同士となった。嬉しくて、その日は眠れなかった。(そんなこと、は知る由もないのだが)付き合い始めてから、とにかく二人はいつも一緒にいたように思う。勿論男女の違いがある事から、学校生活の大半は同性の友人と生活を共にしていたが、それでも同じクラス+部活仲間だ、会わない日を数える方が早かった。
付き合い始めてから、不二とは一緒に下校するようになった。不二の家はと少し方向が違ったが、不二が遠回りをしてを送り届けていた。少しでも一緒に居たいが為の行動。があまりにも顔を真っ赤にさせるから、つられて不二の顔も紅潮した。余裕なんて、とうになかった。それくらい、真剣な、本気の恋だった。
の笑った顔が好きだった。
の不貞腐れた顔も好きだった。
の困った顔、怒った顔、泣いた顔、照れた顔、はにかんだ顔、鈴のような声も、可愛らしい仕草も、全てが愛おしかった。大切にしたかった。
中学を卒業しても、二人の関係は濃密になるばかりで、(そりゃあたまには喧嘩もしたが)大好きの気持ちは強くなるばかりだった。
「ずっと一緒にいようね」「これから先もずっと好きだよ」と笑いあった日々。
変わらなかった、何も。
変わらないと思っていた、何も。
いや、変わらないでほしかったんだ、何も。
気がつけば、良く待ち合わせ場所に使った公園へと足が向いていた。良く、部活帰りに寄り道したそこの肌色のベンチは今や塗装されて青色へと変化していた。変わらないものなんて、何もない、か。一人ごちて寂しくなる。けれども、と別れて約十年も経つと言うのに、この気持ちだけは色あせる事が無い。どんな時でも思い出すのは、の笑顔。
本当ならば、ずっと自分の隣で笑っていてほしかった。笑顔にしてあげられるのは自分だけだと、思っていた。だって、自分がこの世界で一番の事を好きで、想っているのだと自負していた。
それなのに
――周助、…辛いよ…っ
――待てると思った。好きだから、距離なんて関係ないって思った。距離なんかで終わらないって思ってた。
――離れたからって周助の気持ちがどっか移っちゃう、なんて不安はないの。でも、辛いのっ
――やっぱり、不安な時は傍に居て抱きしめてほしいの。大丈夫だよって頭撫でてほしいのっ
――周助の事、好きだから、…大好きだから、同じくらい、苦しいの
夏休みには会えるねと、早く逢いたいよって、離れてても気持ちは変わらないよ、と笑っていた声が、嘘のように弱々しく吐かれたの本音。悲痛な叫びに、僕はずっと彼女が我慢していたのだと知った。
ずっとの事を好きだと思っていた。これから先もきっとずっと好きだと根拠もなく思っていた。愛してる、なんて恥ずかしいけれど、それくらい本気でを想っていた。の笑顔を守っていこうと、ずっと彼女を笑顔にしていこうと、誓った。
それなのに、その"僕"がの笑顔を奪っていく原因だなんて知ったら、
「別れて、ください」
本当は嫌だと声を大にして叫びたかった。僕は好きだ、大好きだと声が枯れる程に伝えたかった。けれど、出来るわけがないと、不二は思ったのだ。
彼女の笑顔一つ守れない自分が、これ以上彼女を苦しめるなんて。と。
それなら、辛いけれども、自分の気持ちに蓋をしよう。それで不二の好きだったの笑顔が戻るのならば。
「わかった。別れよう。ごめんね、傍に居てあげられなくて」
そう口にするしかなかったのだ。
青いベンチに腰掛けて、先ほど公園に来る前に立ち寄ったコンビニで、買ったそれ。普段なら肉まんと言えばカレーまんの不二だったが、ふと一つだけ残っていたあんまんが不二の目にとまった。気がつけばお買い上げしていた。
袋から取り出して、それを半分に割った。ふわりと、まだ温かさの残るそれから湯気と甘い香りが不二の鼻孔をくすぐる。
「はい周助、半分こっ」
不意に、の顔が脳裏をよぎった。
パクリ、とあんまんを食べると、やっぱり香りと同じ甘さが口の中いっぱいに広がる。
「んん〜!やっぱあんまんだねえ」
思い出すのは、そんな何気ない会話。けれども確実に幸せだったやり取り。その顔を見ていたら、カレーまん派の不二にとって苦手なあんまんも、笑顔で食べられた、なんてが知る由もない。
「……やっぱり、甘いや」
一人で食べるそれは、やっぱり甘いだけで、切なさだけが残った。